「ポー君の旅日記」 ☆ 楽しみであったボニャオン市場が工事中のポルト18 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2018紀行文・9≫
=== 第3章●ポルト起点の旅 === 思い出が詰まる〔ボリャオン市場〕は今年も工事中であった
《南端の〔ファーロ〕から、北方の〔ポルト〕へ大移動》
ポルトガル共和国の南端〔アルガルヴェ〕地方の中心地〔ファーロ〕から、ポルトガル共和国の〔新幹線こだまダイア級〕特急列車・アルファー号で北上し、
中央部〔アレンテージョ〕地方にあるポルトガル共和国の首都〔リスボン〕を通過。
更に北にある〔ノルテ〕地方のポルトガル第2都市〔ポルト〕に、6時間余りで走破した。
見方を変えると、東海道新幹線の〔名古屋〜東京〕間は凡(およ)そ300kmだが、ポルトガル共和国の大西洋側に南北に走る鉄道列車の走行距離は、大凡(おおよそ)750km。
(この距離計算は、ポルトガル全地図で糸を這わせ野老が測った推定距離である。ご了承ください。)
南端〔ファーロ〕から首都〔リスボン〕まで凡そ300km、更に〔リスボン〕を北上した第2都市〔ポルト〕まで凡そ300km。
つまり南北に走る走行距離の5分の4の距離凡そ600kmを6時間ほどで走ってきたことになる。
ポルトガル共和国は日本の4分の1の大きさと言われていることが、推測できる数値かと思い上呈(じょうてい)した。
その北方の、人口23万ほどの第2都市〔ポルト〕は、14世紀中旬から始まったヨーロッパ大陸の他国に先がけ、
〔エンリケ航海王子〕が仕掛たポルトガルの〔大航海時代〕と言われた、その先陣を切った中心地だった。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルの南のファーロから北の都市ポルトまで、特急列車で行くことにした。
リスボンで乗り換えのない便は早朝7時発の列車である。
そのあとの便は3時しかない。
ホテルのモーニングをあきらめて、早朝の便に乗ることにした。
《エンリケ航海王子》
地図を見れば一目瞭然だが、隣国スペインの大きな口に飲み込まれそうな、北側と東側がスペインとの国境で、
西側と南側は大西洋に囲まれているヨーロッパ最西端の小さな国が〔ポルトガル共和国〕である。
圧迫され続けた長年にわたる地理的位置(前述の様子)と、歴史的背景(国家としてポルトガルの生き抜く先は海しかなかったという苦境)の中で、
誰しも想像できなかった爆発的快挙の行動こそが、〔ポルトガル大航海時代〕の幕開けであリ、その中心的人物が、〔エンリケ航海王子〕だったのだ。
当時のポルトガルの指揮者は〔ジョアン1世〕。
イングランドのヘンリー4世の妹フィリーバを妻にした騎士団長だった。
彼はイスラム教徒のポルトガル侵入に苦慮し、アフリカの拠点〔セウタ〕攻略に3人の王子を遠征させる。
なかでも航海術に長けた14世紀なかば生まれの21歳になったエンリケ王子らを、〔ポルト〕の町を大西洋に流れ下る〔ドウロ川〕から出航させ、北アフリカの難関不落の〔セウタ〕を攻略。
その功績が、大きな自信となるエンリケ王子は、アフリカで取引する商隊の一大拠点〔セウタ〕の総監に奇しくも任命される。
この地で〔エンリケ王子〕は、野望の下地を養う。東西貿易がもたらす豊富な物流と富の魔力を目の当たりにする。
彼の繊細にして大胆な〔ポルトガル大航海時代〕への計画は、彼から引き継がれて行く組織作りの力にまで及ぶ綿密さだったに違いない。
〔エンリケ航海王子〕の後、意思を継いで行ったのは、〔アフォンソ5世〕〔ジョアン2世〕〔マヌエル1世〕と400年ほどの〔大航海王室〕の後継者に引き継がれて行った。
エンリケ航海王子が引退した後は、ポルトガルの最南端〔サグレス〕の岬で航海学校を作り、大航海時代を引き継ぐ航海者の育成や逆風でも航海できる〔カラベル船〕の開発もする。
このカラベル船のお陰で14世紀後半からの大航海時代の最盛期まで、ブラジル・インド・マダガスカル・マカオ・マラッカ・フォルモッサなどを領地とした。
また鎖国ジパング(日本)へ初めて入国したのも、〔ポルトガル〕である。
●1415年 (セウタの征服・その後、大航海時代はじまる)
●1420年 (エンリケ航海王子がキリスト騎士団長に任命される)
●1438年 (エンリケ航海王子がサグレスに航海学校設立)
●1460年 (エンリケ航海王子死亡)
●1543年 (種子島にポルトガル人漂着・鉄砲伝来)
●1549年 (鹿児島にフランシスコ・ザビエル来航)
●1569年 (宣教師ルイス=フロイス織田信長に謁見)
●1582年 (天正遺欧少年使節団)
●1755年 (リスボン大地震)
●1910年 (王制崩壊・ポルトガル共和国成立)
●2013年 (日本ポルトガル友好470周年)
隣国スペインから東西に流れ、大西洋に流れ込む、そのドウロ川の河口に拓(ひら)けた〔ポルト〕の港町が、世界の海を制覇していった発端の地。
その大航海時代で築いた成果は、ブラジルをはじめ大西洋や太平洋の各地を植民地に収め、莫大な富を得て行く。
この発端は〔エンリケ航海王子〕の功績であるが、その後の歴代の王族がエンリケ航海王子の意思を引き継ぎ、400年ほども達成し続けていったことが素晴らしいと野老は想う。
「けいの豆日記ノート」
学生のころから歴史に弱く、日本史も世界史も覚えることは苦手であった。
ポルトガルに旅する以前は、ポルトガルのことは、鉄砲、キリスト教、カステラ、テンプラなどしか知らなかった。
それが、旅をするうちにポルトガルの歴史的な建物など見るようになり、歴史にも興味が出て来ていた。
エンリケ航海王子の像が各地にあったりするのは、それだけポルトガルに貢献したからであろう。
《ポルトガルの救世主ポートワイン》
それに〔ポルト〕には大航海時代と同様、世界を制覇した〔コクと香りと色合い〕の風味で知られる、ワイン好きには堪(たま)らないポルトガルワインの〔ポートワイン〕生産地である。
実は、大航海時代が終わった後のポルトガルの苦境を救ったのが、この地〔ポルト〕で製造されていた〔ポートワイン〕だったという。
そのポートワインを製造しているワイナリーが、ドウロ川の河口沿に並ぶ〔ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア〕地区に勢揃いだ。
ここに、ポートワインを求めて世界からの観光客が連日押し寄せ、1日中賑やかであった。
このポートワインは18世紀の初めには、すでに国際的製品として名高かったが、特にイギリス市場に生産の7割以上が占められていた。
過去のイギリスとの協定でポルトガル産ワインをフランス産より低い関税で輸出させられていた。
そのためポルトガル産ワインは世界に出回らなかった模様である。
あの美味い〔ポートワイン〕の秘法は、ブランデーを使い、ワインの発酵を止めるという独特の製造にあるらしい。
単なる甘いワインとは違う、複雑に繊細に絡(から)みあった風味のまろやかさの旨味が、野老は好きだ。
最近「やっとこ、さっとこ」ポルトガルワインが日本市場にも出まわり入手可能になってきたが、野老が大好きなポートワインは、〔ポルト〕の〔サン・ベント〕駅から〔ドン・ルイス1世橋〕方向に降る坂道ではなく、〔クレリゴス教会〕寄りの〔ボルサ宮〕に抜ける、あまり広くない坂道の途中にある〔酒屋〕的雰囲気の店にはある。
現在も〔ポルト〕の「日本語学校」で活動し続け、ポルトガルと日本の橋渡しに尽力するポルトに住んで(嫁いで)40年以上になる弘前市生まれのYさん夫妻とは、
10年来のお付き合いをさせて貰っている。
その学校の様子を〔撮影〕させて頂いたり、レストランでゴチ(お御馳走)になったりと迷惑をかけ、お世話になってきた。
そのYさんが知多半島の海辺に住む野老に6年ほど前、送ってくれた〔ポートワイン〕。
その風味の虜になリ、名古屋のデパートやイオンのワインコーナーなどで探すがゲットできない。
しかし、先日(3日前)ポルトガル南端の〔アルガルヴェ〕地方の中心地〔ファーロ〕の片田舎で泊まった兄弟宿。
そのオーナーに勧められ翌朝行ったカルモ教会前の小さな広場のこじんまりとした露天朝市。
その広場で偶然見つけた小さなスーパーマーケットで野老が求めていた、神が与えてくださった1本だけ埃をかぶって鎮座(ちんざ)していた〔ポートワイン〕を発見。
赤でなく白だったが、おいしくいただいた。涙が出るほど、おいしかった。
〔ポルト〕上空には、ドウロ川沿いを〔ゴンドラ〕がゆったりと飛ぶ。
アニメ映画の巨匠・宮崎駿監督の『魔女の宅急便』で、魔女の血を受け継ぐ13歳の〔キキ〕が大活躍した舞台となった世界が、ここ〔ポルト〕の港町だと言われている。
老舗セラー〔黒マント印のサンデマン〕などのポートワイン製造地帯を見渡し、川沿いに浮かぶかつてドウロ川上流から
〔葡萄の原液を詰め込んだ樽〕を運び込んだ小さな帆船〔ラベーロ〕が、川岸に各ワイナリーの広告塔になって一列に浮いている。
滞空距離700mほどのゴンドラを降りると、ワイン飲酒のサービスが楽しめる。
世界的銘酒で名高い〔ポートワイン〕製造現地でワイングラスを傾けるのも、なかなか乙なものだった。
そんな北の商業都市である古都が〔ポルト〕であった。
「けいの豆日記ノート」
第二都市ポルトは、リスボンより好きな町である。
見どころもとても多いのに、ガイド本の扱いが小さくて物足りない。
リスボンのように、地域別にわけて詳しく載せてくれたらいいのにといつも思っている。
ドウロ川岸に寝転んで、ゆったりとした時間を過ごしたいとの思いもあるが、そんな時間がない。
ポルトだけで、1か月ほど過ごせたら、どんなにいいだろうかと思う。
《信じられないwi-fiの世界》
5月24日(木)の早朝。5泊お世話になったポルトガル共和国南端の中心地〔ファーロ〕。
その兄弟宿〔ホテル アデライデ〕の兄のオーナーは別れ際「素晴らしい日本人が泊まってくれ、嬉しかった」と、約束通りタクシーを呼んでくれ、
旅行バックをタクシーに積み込む手伝いをする6時30分、ポツリと野老に言った。
『何が?』と聞くと「部屋が毎日きれいだった」『?、?』
更に「オブリガード テーニョ サウダードウシユ トウアシユ」(ありがとう、お別れするのがさみしいよ)」と、いつものむっつり顔が笑顔さえ浮かべ、言ってくれた。
相棒が毎朝、撮影に出る間際、チャチャチャと部屋を掃除していた、あのことかも知れない。
5夜もお世話になる[お世話様]のほんの相棒の気まぐれかも知れぬ御礼行為を見逃さぬ中年オーナーって、いい奴だと野老は思う。
勿論、別れ際『ありがとう!オブリガード!』と握手した。
もう一つ、強烈な印象が今も残っている。6時間余りの列車車中は教室であり、仕事場だったのだ。
電源無料のコンセントが相対する4人がけ座席テーブルに装着され、若き学生風乗客達はもとより中年サラリーマン族、それに観光客も持参のノートパソコンやipadなどに必要な〔wi-fi〕が車中に設置され飛ばされ、それが移動中の学習や仕事に役立っていた。
今やwi-fiは、現代のスーパーマンであった。
そのスーパーマンがポルトガルの撮影取材旅を続ける我らの前に簡単に飛び込んできた。
日本を飛び立つ前、ポルトガルでのwi-fi事情が解らず、野老は現地でのwi-fi使用料24時間980円の使用契約を日本を発つ前に〔ipad〕に打ち込んできた。
しかし、wi-fiがポルトガルでこれほど日常茶飯事に平然と存在されていようとは想像もしていなかった。
そんな訳で今回の旅では、24時間を1回だけの980円で済んだ。
公共建物は勿論のこと、我らが5泊したちっぽけな宿でも、街角のカフェやレストラン、路面電車にも〔wi-fi〕は日常生活に溶け込んでいた。
この現実は、まさに〔恐れ入谷の鬼子母神〕(おそれいりやのきしもじん)模様に驚く野老である。
日本では考えられない、列車の朝の通勤中の車中景観に、野老はただただ唖然。吃驚吃逆(びっくりしゃっくり)のていたらく。これくらいの車中風情を可能にしないと、ニッポンも世界から取り残されてしまうのではないかと気がもめる。
それが、2018年5月24日の、am7時00分発〜pm12時45分着の特急列車・アルファー号車中で感じた野老の刹那的(せつなてき)感想である。
「けいの豆日記ノート」
列車が早朝の為、せっかくのモーニングが食べれない。
なので、前日にオレンジジュースとパンとバナナをもらっておいた。
列車の中で食べるためである。
移動がバスの場合トイレが困るので、あんまり食べたり飲んだりできないが、列車だとトイレが付いているので、安心して水分を取れる。
その辺が列車のいいところである。
《カンパニャン駅とサン・ベント駅》
第2都市〔ポルト〕の鉄道列車の終着駅は、2つある。
その一つが、我らが乗って来たアルファー号が滑り込んだ〔カンパニャン〕駅。
ここからも〔ポルト〕市街各地に行けるが、出来ればカンパニャン駅でドンコ列車に乗り換え、
ひと駅5分のもう一つの〔終着駅〕いや〔ポルトの玄関口〕である〔サン・ベント〕駅で下車して欲しと、強く思う野老だった。
サン・ベント駅舎構内には〔アズレージョ・装飾タイル画〕で、この町の華々しいかつての歴史絵巻が、まるで日本の草木染の色合い模様で、
高い天井の壁面に惜(お)しみなく繊細に〔タイル〕に焼きつき、描かれている歴史的宇宙がひしひしと高貴に迫って来るからだった。
その光景は、まるで駅舎の構内が〔アズレージョ美術館〕のように心地よい。歴史的な玄関口駅舎〔サン・ベント〕駅が、初々(ういうい)しい旅の出逢いのごとく、
我らをすんなり迎えてくれる。
さっさと足早に、構内を毎朝毎晩通勤通学する人々は、眼の片隅にアズレージョの残像を無意識に残させてくれるに違いない駅舎構内だ。
6時間余りの旅の玄関口〔サン・ベント〕駅構内のアズレージョ壁画は、いつ来ても胸の中に染み込み、楽しませてくれる。
かつての修道院の跡地にジョルジェコラコによって、1930年に造られたという夢のごとくの壁画アズレージョ3面の壁を仰ぎ見て、
〔アズレージョ〕画の繊細さに感嘆し感激させられる。
〔サン・ベント〕駅舎を一歩出るとテラス状の通路になっていて、そこからの眺めはまるでポルトの起伏あふれた市街地絵巻が楽しめる展望台のよう。
一歩でも早くこの世界に飛び込んで行きたいと心が弾み踊らされる。
急勾配の丘に拓(ひら)けた目前のパノラマ景観は、ポルトガルの世界遺産のひとつ[ポルトの歴史地区]だ。
まさに『駅を降りるとそこは、世界遺産だった』である。
「けいの豆日記ノート」
ポルトのサン・ベント駅は引き込み線の終着駅である。
近郊列車のブラガやギガマンイスやアヴェイロに行く場合は、サン・ベント駅が始発になるので便利である。
でも、リスボンからスペインまで行くような特急列車などは、ひとつ手前のカンパニャン駅にしか止まらない。
ポルトガルに行きだしたころ、この引き込み線の駅の仕組みが理解されていなくて、失敗も多かった。
この引き込み線は、リスボンにもコインブラにもある。
たくさんの荷物を持っての移動の時には、特に注意が必要である。
《ポルトの世界遺産の歴史地区》
〔ポルト〕には、歩き回れる距離に〔世界遺産〕の〔歴史地区〕がある。
目前右手のリベルダーデ広場の奥にある市庁舎から、左手はるか先に流れるドウロ川にかけての一帯がポルトの歴史地区だ。
正面に見える丘の上に、18世紀に建てられたバロック様式〔クレリゴス教会〕の、〔ポルト〕で一番高い76mの塔がひときわ目立ち、その塔に登ればポルトの町々は勿論、
眼下に赤い屋根瓦が波打って連なり、その向こうにドウロ川も見渡せる大展望台だ。
急な石畳の坂道からコトコト走る路面電車が自動車群を引き連れ、下ってくる。
左に眼を転じれば、こちらも街を見渡す丘の上に、元々は要塞として12世紀に建てられ、その後改修が加えられた〔カテドラル・大聖堂〕が雨雲を背負って凛と建つ姿が見える。
その先は急坂で下り、ドウロ川岸の〔カイス・ダ・リベイラ〕のレストラン通りだ。
ポルトも首都リスボンと同じような起伏だらけの街である。
そんな〔ポルト〕には、歩き回れる距離に〔世界遺産〕の〔歴史地区〕が、目前右手市庁舎からドウロ川にかけての地域で待っている。
そんな歴史地区の起伏景観を楽しんだ後、駅舎から歩いて2分の目先、鼻ツ先のホテル〔ペニンスラール〕が2003年からの〔ポルト〕の定宿だった。
駅舎から近い、宿泊費が安い、部屋が広く天井が高い、従業員が親切、只(ただ)でいただけるモーニングがいい。
しかし、いつも簡単には泊まれなかった。久しぶりに予約できた、思い出多い〔ポルト〕の宿ある。
「けいの豆日記ノート」
ヨーロッパで訪れたい街の1位になったポルトは観光客が増えてきた。
以前から、人気であったに、ますます人気が高くなり、ホテル代も高くなった。
それに予約もなかなか取れず、前回ポルトに来たときは、いつものペニンスラールが取れず、違う宿にした。
割高なのに、水漏れはするし、モーニングが質素だったし、やはり、いつものペニンスラールがいいと思う。
サン・ベント駅からもすぐで、立地条件もいいので、人気なのかもしれない。
《雨に唄えば》
小雨が降ってきた。
濡れ出した石畳が光って見える。
その遥か700m先の〔ドン・ルイス1世橋〕の下に流れるドウロ川から吹き上がる風は、湿った肌寒さを運んで来る。
季節的には5月中旬も過ぎ、青紫色のジャカランダの花が6月中頃最盛期を迎えるそんな時節だった。
小雨は写真家の晴れ舞台であった。
常套(じょうとう)の目立つ赤い帽子に、赤地に花模様の合羽(カッパ・ポルトガル語)が小雨降る石畳で舞った。
その色合いはいやが上にも、目立った。
こんなに派手なカッパを着て歩く人を、ポルトガルで見かけたことがない。
「目立ち過ぎじゃないかい?」 『そのために、着てるの!』
「でもさ・・・」 『前に、いわなかった・・? 目立った方が、注目される』
「当然」 『注目する目が多ければ・・・それだけ安全度が増す』
「あツ、痴漢、暴漢、スリ、置き引き、その防御策だっけ!」 『気づくのが、遅い!』
並んで歩いたことがない。派手派手ファッションの隣では、恥ずかしいからではない。
野老はこれでも、ボディーガードG(爺)マンだ。適切な反応距離は必要不可欠。
常に前方を見据(みす)える距離感を保ち、ガードしていた。
宿に、着いたのは14時40分を、出たのが14時50分。
トイレタイムと出発準備で10分。
いつものタイムテーブルだった。腹が減っていた。
カタリーナ通りの〔tokyo焼きそば〕を食べたいと思う。
写真家は『まっ、いいか』と頷き、カメラをカッパの腹袋に抱き入れ、小雨で濡れた石畳の坂道を登って行った。
5分も歩くとボリャオン市場を囲む工事用のフェンスが見えた。
しかし、何かが違っていた。市場に入る〔鉄扉の大門〕までフェンスに覆われ、姿を消していた。
「けいの豆日記ノート」
雨降りの日は、写真はお休みである。
大事な1眼レフのカメラが濡れて壊れたら、この先、どうしようもない。
「雨でもいい写真が撮れるのでは?」と聞かれることもあるが、濡れて壊れるほうが怖いのである。
なので、雨の日は、濡れないように注意して、小さなコンパクトカメラだけにしている。
《円形ボリャオン劇場のボリャオン市場》
〔ポルト〕を訪れる観光客に人気のスポットといえば「市民の台所」として注目されてきた〔ボリャオン市場〕だろう。
我らの〔ポルトガル撮影取材旅〕では、偶然にもその「市場」の16年間の喜怒哀楽を垣間見てきた。
工事用フェンスに囲まれた〔ボリャオン市場〕は、寂しげに小雨に打たれていた。
初めて〔ポルト〕を訪れたのは、2002年1月23日(水)。
真夜中の1時10分に〔サン・ベント〕駅のトンネルの上の丘にある〔ホテル メルクーレバターリャ〕にチェックインし、
部屋の窓を開けると正面にクレリゴス教会の高い塔が満月に近い月明かりに照らされていた。
その翌朝24日、ポルト市民の台所として欠かせない〔ボリャオン市場〕に行った。
市場に入る門には、88年も前の高く大きな鉄扉が開かれ、ポルト市民が吸い込まれていく。
買い手も売り手もほとんどが女性たちの朝が始まっていた。女性達の生き生きした世界であった。
聞こえてくる売り買いの声や笑い声が、2階建円形空間に響き渡り〔ボリャオン市場〕がまるで〔ボリャオン円形劇場〕のようであった。
人だかりで人気の魚屋の姉ちゃん、スーパーモデルになるという八百屋の娘。
暖かそうな身なりの果物屋のお婆さん、頭にパンツを重ね腕にタイツを山のように持ち通路で売り歩く姉御肌、生きた兎や鶏を売るおばさん、
燻製を暖簾状に吊り下げて売る店先、オリーブの実の塩ずけを黙って売るご婦人達、花屋、焼きたてパン屋、肉屋、チーズ屋、靴修理屋などここに来れば生きていける全てがあった。
そんな人々を写真家は1日かけフィルムに撮った。
まだフィルム撮影時代であり、貨幣もエクシードからユーロに切り替えられた時だった。
この年の2002年1月23日〜2月5日までの〔撮影取材旅〕紀行文を書き上げ、8月5日に《山之内けい子 愛し野ポルトガル写真集》を発行した。
翌々年2004年の春に再び〔ボリャオン市場〕を訪ね市場の人々に紙焼きの写真を貰っていただく。
八百屋の家族には〔写真集〕を進呈した。
この年の夏の京都での写真展のDMには、みんなで写真集を眺める様子の写真を使った。
その2年後の2006年にも会いに行ったが〔ボリャオン市場〕は揉(も)めていた。
1914年建立の建物は補修か解体か、その工事費は市か各店舗か。
市場は休業店が多くなり、パイプ足場が林のように並び、知り合いの店舗の人たちの姿が消えていった。
2008年、2012年、2013年、2016年、そして今年2018年。
2016年の時は1階の通路でビール樽をテーブルにして観光客がワインを飲んでいたが、まわりは足場の林だった。
そして2018年、小雨の中の〔ボリャオン市場〕は、シートで完全に囲まれていた。
今年の5月初めから、2年後の2020年までの改修工事が決まり、着工に取り掛かったところであった。
現在、ショッピングセンター「la vie porto」で臨時市場開催だという工事看板が小雨に濡れていた。
「けいの豆日記ノート」
以前から、ボリャオン市場が老朽化していて、いろいろとたいへんであることは聞いていた。
ただでさえ、郊外に大柄スーパーマーケットができて、常設市場は衰退している。
いろいろな町で、市場がなくなっているのである。
時代の流れと言われても、昔ながらの対面式の市場は人間模様が見えておもしろいのである。
復活してほしいと願っている。
《tokyo焼きそば》
〔ボリャオン市場〕から1ブロック東にいつも賑やかなショッピング街の〔サンタ・カタリーナ〕通りがある。
通りの南端に観光客で溢れているアール・ヌーヴォー様式の〔カフェ・マジェスティック〕には入ったことがない。
待ち客で、長い列ができている店で高いカフェは野老には似合わないからだ。
15時をとうに過ぎ、腹の虫が騒ぐ。
通りの中程にあるフードコートの長いエスカレータを乗り継ぎ、4階にある〔tokyoやきそば〕の店の前に立ち注文した。
その焼きそばは、野老にとっては懐かしい東京渋谷にあった〔恋文横丁の眠眠の焼きそば〕そのままの味だった。
2年前に偶然食べさせてくれた横浜の中華店で修行したというポルトガル青年は厨房にいた。
大きな鉄板片手中華鍋の柄(え)に白い布を巻きつけ左手でがっちり握りしめ、右手で鉄製の柄の長い玉杓子を巧みに操り具とやや平たいそばを炒める。
文句なく、うまかった。
小雨が舞ったり、止んだりの空模様だった。
そんな通りの土産店でイワシ型の焼き物のマグネット、缶詰ショップでオリーブオイル漬けイワシの缶詰を買い、ポルトガルスイーツ屋のショーケースを覗き
タルタ・デ・フルータやパステル・デ・ナタの1個買いをし、ドウロ川にかかる高さ70mほどの〔ドン・ルイス1世橋〕からの迫力満点のドウロ川を眺め、
この眼下の港から〔ポルトガル大航海時代〕が始まったんだと夕日を見ながら思うのも乙だと思う。
●漢字に(・・・)と読みを容れていますが、読者の中に小・中学性の孫娘達がいますので了承ください。(野老)●
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
・・・・・・・今回分は2019年3月に掲載いたしました。・・・・・・・
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