「ポー君の旅日記」 ☆ かつてワインの積み出し港であったピニャオン2 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2018紀行文・13≫
=== 第3章●ポルト起点の旅 === ポートワイン産業の要・ブドウ収穫と運搬の労苦は駅舎アズレージョが物語っていた
《925mの生命線》
知多半島のセントレア(中部国際空港)からドイツのルフトハンザ空港経由、ポルトガル共和国の首都リスボンに入リ、10日目。
少しばかりの日々の疲れが蓄積され、野老(ヤロー・78歳)は些(いささ)かへばり気味であった。
だが、そんな素振りを顔色に滲(にじ)ませてはならないと気を引き締めた5月27日(日)の早朝である。
相棒の写真家が〔ホテル ペニンシュラ〕から目先の〔サン・ベント駅〕に向かいながら、右手丘の上にある〔クレリゴス教会〕とポルトガル第二都市〔ポルト〕の
町が一望できる76mの塔の上空を仰ぎ見て『テンション、がた落ち日和じゃの〜ぅ』と吐く。
無理もなかった。
今日はどうしても晴れて欲しいと昨夜から願い続けていたからだ。
かつて、2004年4月20日と2006年10月24日に、ここ〔ポルト〕から100km以上もさかのぼったドウロ川上流〔アルト・ドウロ〕地域の町々を訪ねたが、
雨模様だった苦(にが)い思い出だけが残リ、その鬱憤(うっぷん)を晴らしたかった。
〔ポルト〕に行ったら世界に名高いポルト産〔ポートワイン〕を飲まずしてポルトガルを語る資格なし。
なんて、どこの国の酒呑み連中も発する常套句(じょうとうく)を旬(しゅん)にして、ワイングラスを傾ける。
世界に誇る〔ポートワイン〕は、〔ポルト〕の市街に流れるドウロ川岸〔ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア〕にある各ワイナリーで、
葡萄の原酒から伝統秘伝の技で製造し、販売をしている。
しかし、本家本元の原料である葡萄は、隣国スペインを源にポルトガル北部の山岳地帯を流れ、〔ポルト〕の河口から大西洋に注ぐ全長925mの
〔ドウロ川〕が、ポートワインの生命線だと言っても良い。
そのドウロ川上流〔アルト・ドウロ〕地域の町々が、写真家にとって再挑戦を試(こころ)みる〔ポートワインの故郷〕であった。
「けいの豆日記ノート」
ポルトに着くと雨で、翌日も雨、やっと昨日は曇から晴れてきた。
今日の天気はどうだろうか。
天気が悪いと写真を撮る気持ちになれず、高台に登ってもなんにも見えないだろうと思うと登る気にもなれない。
以前、ドウロ川上流のポシーニョまで行ったことがある。
ポシーニョは、ローカル列車の終着駅である。
大雨続きの後の晴れであったが、大雨の影響でドウロ川は泥水で茶色になっていた。
せっかくの風景が茶色の水で、残念な感じになってしまったのである。
そのリベンジも兼ねて、ポシーニョまでの途中にあるピニャオンに行って見ようと思った。
《迷惑帽子条例発令》
2001年の〔ニューヨーク同時多発テロ事件9・11〕があった11日後の、9・22に始めてのポルトガル〔撮影取材旅〕の第一歩として、〔首都リスボン〕を訪ねていた。
3ヶ月前にリスボンまでの往復搭乗券を購入済であったため、世界中の空港が軍隊出動で物々しく「行くべきか、行かざるべきか」で悩んだが、
当時61歳の野老は「日本から途中のヨーロッパの空港で乗換え、ポルトガルに着くまで凡そ18時間から20時間は掛かる」と〔相棒の写真家〕から聞かされ意気消沈し、
思案投げ首の結果、「この機を逃したら年齢的にも今後、初のポルトガルへは二度と行けまい」と判断し決断、そして実行した。
それが功を奏(そう)し、今回で10回目の〔ポルトガル撮影取材旅〕慣行中であったが、初っぱなからあっちが痛いこっちが痺れる「与太郎」気味であった。
写真家は、ご機嫌の旅立ちであった。
しかし、彼女は〔迷惑防止(帽子)条令〕第一条[撮影時50m以内・目印となる赤帽子着帽の事]という厳粛なる条令に縛られた身であった。
これを守らず、あっちの路地こっちの建物に撮影遁走(撮影に夢中になり とんそう)する事例が多発し、〔番人である野老〕に多大なる精神的不安感を与え、
チョットばかりの迷惑をかける。
そのための条令[約束の目印、真っ赤な帽子着帽]であった。
この条例を発令後、ポルトガルの都市でも地方でも、赤い鍔広(つばひろ)帽子を被(かぶ)っている人はほとんど見かけられないため、
それが効果覿面(こうかてきめん)だった。
50mぐらいは離れたいつでも混雑する〔ポルト〕のメインストリート〔サンタ・カタリーナ通り〕でも、一瞬にして写真家の位置を確認できた。
〔番人〕の任務は擁護である。
無事故無障害続行中の、その優秀さを誇る完璧さが評価されていた。
だが、その背後に見え隠れする真実が潜(ひそ)む。
〔番人〕の証言によると「赤い帽子を見失うことが度々訪れ、そのたびに〔白内障手術〕をしておけばよかったと悔やみ、視界に赤帽子が飛び込んで来るたびに
『あ〜、迷子にならずにすんだ』と方向音痴の野老は胸を撫(な)で摩(さす)っておりました」と、なんとも言えない切ない事実が判明。
今回の旅も写真家は申し分ない律儀で、嬉々として赤帽子着帽を忘れない。
そんな下地があって、野老〔 荷物番 & 運び人 & 番人(せめて、ボディーガードマン) 〕は、写真家と〔20日間〕の珍道中〔撮影取材旅〕続行中であった。
「けいの豆日記ノート」
日本でもそうだが、町中で帽子をかぶっている人はあまりいない。
「男の人はハンチングをかぶっているでしょう。」と言いたいところだが、ハンチングをかぶっているのは田舎の町である。
普通の帽子でもいないのに、赤い帽子ならなおさらである。
赤い帽子はなかなか売っていなく、しかたないので、なるべくハデな感じの帽子にしている。
まあ、目立つことが1番と考えている。
《ガラス窓を拭く女》
高い天井から壁一面に飾られた、白地に日本の草木染の様な蒼色で描かれ焼かれたタイル画(アズレージョ・装飾タイル画)で名高い駅舎構内。
今朝(けさ)も人の流れと壁面を仰ぎ見る観光客で賑わう〔ポルト〕の玄関口であり終着駅である〔サン・ベント駅〕だった。
9時10分発の隣国スペイン国境まじかの終点〔ポシーニョ〕行き列車は、すでに長いプラットホームで待っていた。
〔世界遺産〕のドウロ川上流地域〔アルト・ドウロ地方〕を巡る観光拠点〔レグア駅〕→〔ピニャオン駅〕→〔トウア駅〕→〔ポシーニョ駅〕へと、
ドウロ川沿いを併走する列車は便利であり、眺め楽しむには願ったり叶ったりの車窓風景が展開することは、かつての雨降り経験で堪能出来ることは知っていた。
ポルトガル共和国のどこの町に行っても見られる屋根瓦と同じ爽やかなオレンジ色が、白いボディを包んで後続車両に走り抜けるデザインの列車に写真家は乗り込み、
適度に混む自由席車中二つ目の〔進行方向右側〕の向かい合わせワンボックス席を確保。
青いシート座席に荷を置き、日本から持参のビニール袋と宣伝文字が入るティッシュペーパー5袋を取り出すと列車から降りる。
その姿は一瞬にして野老が座った席の外部窓ガラス前に現れ、持参のティッシュペーパーで拭き始めた。
それも、丹念に拭き、真っ黒に汚れたティッシュペーパーをニヤリ笑って野老に見せ、ビニール袋に入れた。
その繰り返し作業に、列車に乗り込む人も、乗ってからの人も、怪訝(けげん)な顔を隠さない。
注目度抜群の写真家は声を掛けられる度に喋るが、当然ながらのぶ厚いガラス窓越し。
野老には聞こえないが、写真家は終始一貫のガラス磨きに専念だった。
これからずっとこの列車は、進行方向右側に流れる〔ドロウ川〕を見ながら目的地の〔ピニャオン駅〕まで、2時間40分ほどの旅が待っている。
その長旅の、川や対岸の渓谷の葡萄畑情景を車中から撮影して行くには余りにも〔観光国家ポルトガル共和国〕の列車の窓ガラスは、
いつ掃除したかも疑わしい汚れようであった。
プラットホームから手の届かない上部窓ガラスの隅々を背伸びし、ぴょんぴょん飛び跳ねての拭き作業。
汚れたティッシュペーパーいっぱいのビニール袋を握り締め座席に戻ると、今度は内側のガラス窓を丹念に拭き出すと、乗客から驚きの溜息(ためいき)が漏れた。
ガラスの汚れを落胆する大息(たいそく)ではない。
透明な美しさに変身していく窓ガラスに驚く讃美(さんび)であった。
まさか、拍手が起こるとは思わなかった。
薄っすら額に汗して拭き続ける赤帽子の魔術師、写真家に向かっての拍手だった。
「けいの豆日記ノート」
ポシーニョまでのローカル列車はサン・ベント駅が始発であった。
サン・ベント駅は引き込み線の駅であるが、リスボンやスペイン方面に行かない近郊列車やローカル列車の場合、始発になっている。
始発なので、列車の発車まで時間があった。
進行方向右側の窓にラクガキのない席を決めてから、窓ふきをしようと考えていた。
窓ガラスが汚いことが残念な点である。
ホテルからトイレットペーパーを多少頂いてきて拭いてみた。
思った通り、真っ黒であった。
ガラスクリーナーがあれば完璧だったのに、なくて残念であった。
《美しすぎる車窓風景》
〔ポルト〕の〔サン・ベント駅〕から発車した列車は、19世紀末〔ポートワイン〕の原酒運搬用として敷かれた貨物運搬路線を走っていた。
内陸部を走り1時間ほど過ぎ、タメガ川を渡ると山間(やまあい)の景色になり、〔ポルト〕から80km当たりから車窓いっぱいにドウロ川沿いを走る景観が広がってくると、
心地よさが倍増した。
写真家が拭いた車窓は、左右の車窓風景より当然、透明度抜群だ。
唖然とするほど車窓を走る風景の彩度明度が違った。
その車窓の枠の中に、真っ白いドウロ川クルーズ船体が飛び込んで来て、ふた呼吸み呼吸後には飛び去って行った。
その大きなクルーズ船は〔ポルト〕のドウロ川畔船着場から、我らが乗った列車の2時間以上も前に早朝出航し、モーニングタイムには豪華な朝食に
〔ポートワイン〕までいただき、ゆっくり半日ほどかけて〔ピニャオン〕まで川風に吹かれ〔ポートワイン〕を惜しみなく頂けるツアークルーズらしい。
是非是非、乗ってみたいものだった。
〜だが、夢を砕くようだが、あんたらのケチケチ倹約撮影取材旅野老には高嶺の花だ。忍耐、忍耐、忍耐である〜
川岸の川面が走行列車の風動で、さざ波が立ったと勘違いするほど、走る列車の足元から小さな白い波頭が広がり、幅広い川を流れ下って行くように感じられる雄壮なドウロ川。 走行する列車から200mになったり300mほどになったリ100mほどに接近したり、蛇行する川の流れで対岸との川幅は変動する。
川面から競り出る急斜面の小山はそのまま段々畑の葡萄畑となって幾重にも、何百何千段も重なり合って天空に駆け上がるように伸びていく。
その上空に、厚めの白い雲が割れ、青空が広がりそうな気配を見せる雄大な〔アルト・ドウロ流域〕車窓景観に見惚れていた。
「けいの豆日記ノート」
サン・ベント駅始発なので、席は自由に選べる。
このポシーニョまで行くローカル列車の場合、どちら側の席に座るのかがとても重要になる。
ドウロ川に沿って線路が走っているので、席によって差が出てくる。
渓谷の美しい風景が見える席と、山や崖の斜面ばかりの席になるのである。
線路はドウロ川の北側にあるので、南側の席に座るのがベストである。
《長蛇の列との遭遇》
赤い服装の人たちが目につくプラットホームに11時15分に着いた〔レグア(ペゾ・ダ・レグア)駅〕で6分ほど停車する。
赤い服装の人たちに白いエプロン姿で赤ズボンにズック靴のおばあさんが、腰に下げた籠(かご)から白い袋を出して売り歩く姿が目を引く。
飴売りだと後で知った。でも、この赤い服装の連中はどちら様かと、野老は訝(いぶか)った。
ぴーと高音の発車音で列車は〔ピニャオン駅〕に向かった。
ドウロ川が走行列車に急接近するレグア駅に着く前から、我等のボックスに来て写真を撮っていく乗客の頻繁度(ひんぱんど)は半端じゃなかった。
入れ替わり立ち替わる乗客の人種が変わり、透明度抜群の車窓が口コミで前後の車両からもスマホ片手に押し寄せる盛況振りであった。
レグア駅からピニャオン駅までほぼ30分23kmの距離は、ドウロ川渓谷最良の車窓景観が楽しめることで評判が良かった。
因(ちな)みに、ポルトの〔サン・ベント駅〕から終点の〔ポシーニョ駅〕までは、全長175km。
その間、ほぼ100kmはドウロ川沿いを走っている〔ドウロ川沿い鉄道旅〕だったのだ。
「ね〜え、あれは、何 !?」と野老の隣りに無断で座り込んで、スマホで車窓風景を撮っていたスペイン娘が、
遥か先川幅300mほど対岸の肉眼でも薄っすら見える赤い帯状の動く長蛇を発見した。
その摩訶不思議な光景に歓声をあげると、その声でその娘(こ)の仲間が押し寄せ、スマホで写真を撮り出す。
スマホで撮って撮れないことはないが、耳元で興奮気味に喋(しゃべ)くり返す喧(やかま)しさで、野老は思わず左耳のピアスじゃない、補聴器を外した。
『マラソン大会みたい、よ』と、写真家がファインダーから顔を上げた。
首に下げた真っ黒いニコンカメラのボディと望遠レンズの太さを見てスペイン娘は「おばあさん、プロ、素敵!」。
その一言を吐いて、オブリガーダ!と笑顔で散っていった。
(決して写真家はお婆さんではありません。「vovo」と「bonita」の発音がそう聞こえただけだったのかも知れない。
・・・「おばあさん」と「素敵」)。
〔アルト・ドウロ〕と呼ばれるドウロ川上流地帯の山肌の急斜面な土地を利用した緑色に輝く葡萄の段々畑景観。
その水面近くの狭い道路を走る赤い長蛇のマラソンレースに遭遇していたのだった。
我らはドウロ川上流〔ピニャオン〕に向かっていたが、長蛇の列はさっき6分ほど停車した下流〔レグア〕に向かっていた。
このマラソンに関しては、レストランのテレビと翌朝の新聞記事で知った。
「けいの豆日記ノート」
ドウロ川の横を走る列車は車窓を見ていても飽きがこない。
渓谷とドウロ川に時々家もありの景色が流れていく。
出発時に窓ガラスと拭いたとしてもいまいちきれいにはならず、車内から撮る写真は多分曇っているだろうと思う。
でも、望遠レンズなので、対岸の様子が見えた。
赤い集団が走っていく。
マラソン大会なのか。
ポルトガルでマラソン大会に出くわすことがよくある。
この確率はよほど多く大会をしているのに違いないと思う。
《12年前の流血現場》
12時05分前、12年振りに懐かしの〔ピニャオン駅〕に着く。
乗客の半数が降り、写真家が磨き抜いた〔我らの車窓〕を陣取ったスペイン娘御一行様らは嬉々と手を振り〔トウア駅〕や〔ポシーニョ駅〕に向かった。
プラットホームの端から走り去る列車を撮影した写真家が、満足そうに青空の白い千切れ雲の流れを指さした。
晴天の〔ピニャオン〕の青空に乾杯する決めポーズに見えた。ひとまず念願叶った安堵感が、野老にも伝わった。
写真家は駅舎に入り、切符売り場窓口横の壁にピンナップされている列車運行表を見る。
帰路に寄る〔レグア〕行きは、16時08分だと確認した。〔ピニャオン〕滞在は4時間03分。
石畳の車道幅も、真っ白く連なる駅前の建物沿いの歩道幅も、ピニャオン駅舎前通りは変わった気配がなかった。
建物のひさし裏にしがみついている燕の巣の行列もそのまま。
車道の左側は車道が狭くならないように〔斜め〕に頭から串さし状に突っ込んだ駐車状態の車の行列も、奥に伸び白い建物沿いを右折して行く石畳み車道もそのまま。
その先に盛り上がる小高い緑色の急斜面の段々畑が陽射しに打たれ眩しく鮮明に迫ってくる。
その懐かしい景観は、天候に恵まれなかった12年前とは違和感を感じさせる光景であった。
それは、大袈裟ではなく、歓びが湧き幸せ感にどっぷり浸かった思いにさせてくれた。
喜びや幸せ感に匹敵して空腹感が押し寄せた。
腹が減った。12時を疾(と)うに過ぎていた。
といても、5分ほどだが。石積みの壁に刻み込まれた造形看板、二股に冠状に編(あ)まれたオリーブの葉の間に、
縁状の楕円形(多分・樽)の中に葡萄房がほっこり浮かび上がる。
その上にあの日入ったレストランの黒文字〔CASA do POVO〕がそのまま健在だった。
12年前、この店に入る時にはなかった、小雨混じりの店先に、荷台にシートを被せた大型トラックが停まっていた。
邪魔臭いトラックの脇を通り抜けた瞬間、〔コナンおばはん〕は、荷台の隅っこから大きなタイヤの深い溝を伝い、花崗岩の濡れた石畳を朱赤に染める血模様を発見。
もう、こうくれば「ピニャオン駅前 殺人事件」だ。
〔名探偵コナン〕大好き〔おばはん〕はありったけの脳味噌で推理、撮影そっちのけで事件解決を楽しむ。
丁度そこへ昼食を終えたトラックの運転手。そのぶっとい腕を掴み、荷台シートの中を見せろと誘導詰問。
渋々気の良い口髭も立派な50代は微笑み返しで、隅っこのシートを捲(めく)る。
中を覗き込んだおばはんは、絶句どころか雄叫(おたけ)びだった。
『な〜にこれ、イイにお〜い!』 見たものは、葡萄の絞りカスの山だった。
その時、野老は1990年代初めの夏、ニュース番組で〔オカラは今や産業廃棄物!〕キャンペーンを企画し取材。
「山中オカラ放棄処分現場」の2トントラックを名古屋を始め中部3県を飛び回っての〔追跡調査模様〕や食べないオカラ再利用方法はないか
〔牛の餌、土と混ぜ堆肥肥料〕などの現場を探し放送した。
〔オカラの欠点・水分多く腐りやすい〕が難敵だったことを思い出していた。
葡萄の絞りかすは今、何に使われているのか興味が湧いたものだった。
オカラは豆腐文化と共に、〔うの花〕として食べられてきたが豊潤な時代に流され、今や〔オカラは高い金を出して廃棄処分〕せざる得ない〔産業廃棄物時代〕となり、
町の〔豆腐屋さん〕は、青息吐息の世相だと訴えた。
合わせて、〔今晩のおから料理〕コーナーも。店に直接ご来場の方には〔只で出来立てオカラ差し上げます〕告示も放送した。
「けいの豆日記ノート」
以前、ピニャオンを訪れたのは、10月の終わり頃であった。
ブドウの収穫時期は過ぎていた。
ブドウの収穫をしている時を見てみたいと思うが、時期的に8月9月になるので行ける時期ではないのである。
夏の時期はとても暑くなるので、日中歩き回るなどできない時期である。
それにシーズンなので、料金が何もかも高くなる。
結局、夏場は行けなくなるのである。
ブドウの搾りカスでもまだ水分があって、赤い汁が落ちてくる。
それが、こぼした赤ワインのようでもあり、殺人事件の現場のようでもある。
100パーセントのブドウジュースなのに、もったいないことである。
《氷は宝物》
その思い出のレストランの中は赤い服装の人が目立ち、急ごしらえのテレビジョン置き場の前でドロウ川沿いを走るマラソンニュースを見て歓喜していた。
映像から感知できたのは、競技マラソン大会ではなく何かの行事らしかった。
みんな楽しそうな笑顔でゆっくり走り、子供連れの家族や車椅子の女性の姿もあった。
〔ピニャオン〕から〔レグア〕間ドウロ川沿い25kmに及ぶイベントマラソンのようだった。
列車から見た長蛇の列から推し計って、1万人以上の参加者が必要だろうと野老は思う。
そして、なぜポルトガルの世界遺産である『ポートワインの故郷と呼ばれるドウロ川渓谷』をイベントのマラソンコースに選んだのだろうと興味が湧いた。
その疑問は大切な情報だったが、我らもそして日本語を解せる人もいなかった。
ただ、参加者は世界各国から集まった人々のイベントだったことは確かだ。
厚切り豚肉ソテー5枚に油で揚げた丸ごとジャガイモ7個が一皿、冷えた大きなトマト1個分とたまねぎ1個分が切られ、レタスと共に盛り付けられたサラダが一皿、それにバター炒めのコメひと鉢で、一人前(9ユーロ)。
グラス1杯の水と瓶ビール(共に1.5ユーロで3ユーロ)、計12ユーロ(1560円)が我らの昼食代。
ポルトガルの一人前の量の凄さは半端じゃなかった。
毎朝頂ける、只(ただ)のモーニングで腹八分の野老と腹十二分の写真家の昼食は、〔一人前〕の量で充分であった。
そして食事の度に日本はありがたいと再認識する〔お水〕。
日本なら只でなんぼでも、それも氷の入った美味しい水が飲めるが現地では〔氷〕は野老にとっては〔宝物〕。食堂で注文する有料の水には、真夏でも氷の姿は皆無。
安宿の氷はどんな水を使って凍らした〔氷〕なのか謎めく。
そのため、ウイスキーの「オンザロック」を呑みたくても二の足を踏む野老だった。
レストランを出た。店の前には大型トラックは停まっていない昼下がり。
陽射しが石畳の道で跳ねていた。目の前のピニャオン駅舎前で屯(たむろ)する赤いランニングシャツや半袖の子供の姿が目に着く。
その駅舎前の石畳を下って行くと、ドウロ川に接した広場の周辺が駐車場なっていた。
背後は急斜面で駆け上がる段々畑の葡萄畑。
その上空は、申し分のない青空。野老が勝手に呼んでいる〔ポルトガルブルーの青空〕だった。
「けいの豆日記ノート」
ピニャオン駅の前はあんまり店がない。
昼時であったので、レストランを探したが、見つけたところに見覚えがあった。
たしか、以前もこのレストランに入ったような気がする。
グラスワインを頼んでとてもおいしかった。
何杯もお代わりするのも面倒なので、ピッチャー入りのワインを頼んだら、まずかったという話がある。
まあ、ワインが違うからしかたないことでもあるが・・・
《ピニャオン船着場 今昔物語》
その小山の段々畑と青い空が、流れ下るドウロ川沿い風景は遥か彼方まで続き、反対側右手の段々畑が刻まれた小山の急斜面の先端が接近しドウロ川にのめり込む。
その向こうに広がる青空の下に、平らな段々畑の山並みが流れ下るドウロ川の道筋を塞ぐように迫る。
この辺りが〔ポルト〕からドウロ川をクルーズツアーした人達が『ドウロ川で一番景観の美しい130km当り』だと言う地点だろうか。
川の両岸に巨大な岩が迫り出し川を狭めている地帯が〔アルト・ドウロ地域〕で世界に誇る〔ポートワイン〕の故郷だという。
この地域で栽培された葡萄以外は、〔ポートワイン〕を名乗れないという。
その中心地が〔ピニャオン〕であり〔レグア〕であった。
その労苦の葡萄収穫作業の様子は、〔ピニャオン駅舎〕の外壁周りに飾られた〔アズレージョ〕で残されている。
築140年以上にもなったというピニャオン駅だった。
白地にポルトガル独自の蒼色で焼き付けられた装飾タイル画アズレージョが、赤服の人々の目を楽しませていた。
それは15cm四方の〔装飾タイル画〕100枚ほどを集合させ1枚の〔アズレージョ〕と呼ぶ『ポルトガル タイル画』作品である。
〔ピニャオン〕の労苦の葡萄畑作業が描かれた歴史的なアズレージョが風雨にさらされ140年以上も現状維持されていることに感動さえ覚えた野老だった。
昔からポルトガル女性は働き者だと言われていた。
アズレージョに残る彼女達も大きな籠いっぱいに陽射しの厳しい中、急斜面の葡萄畑で葡萄の摘み取りをする姿が描かれ、男衆はその籠を肩に乗せ急坂を下る。
その葡萄原酒を樽に詰め、小さな帆船〔ラベーロ〕に積み込み、帆を張って当時は急流のドウロ川を下って〔ポルト〕へ出荷。
その中心地が〔ピニャオン〕であったことがアズレージョが物語っていた。
運搬手段がトラックに変わり、その桟橋が観光船クルーズの発着場になっている。
今日も〔ポルト〕発の〔ドウロ川クルーズ〕を楽しみ、〔ポートワイン〕をしこたま呑んで頬やおでこ、耳たぶを真っ赤に染めた観光客が船着場で
用意されたバーベキューでワイングラスを傾けている。
野老は見ない素振りで、耐え忍んでいた。
この辺り一帯は小山の段々畑が密集し、しかも規則正しく並ぶ風景は世界で初めて政府が公認のワイン生産地だった。
実は〔産地名を銘柄〕にする制度はシャンパンが知れ渡っているが、話に聞くと『ポルトガルのこの地方で収穫された葡萄を使って〔ポルト〕で製造するポートワイン』
こそが世界に先駆け、1756年に産地銘柄生産が開始された最初だと聞く。
だからこそ、ここが世界遺産にも指定されたのだ。現在まで強い人気がある〔ポートワイン〕は、サンデマンやテイラー、フェレイラなどが人気銘柄のようだ。
「けいの豆日記ノート」
ピニャオン近くの山の斜面にはブドウの段々畑があり、日本での茶畑の段々畑に似ていた。
こちらのブドウの木は、低く作られている。
ツルを上に伸ばすのでなく横に伸ばして、ブドウの実の収穫が楽なように考えられている。
ブドウの実をそのまま食べるのでなく、つぶしてワインにするので、この方法がいいのかもしれない。
以前、ピニャオンのワインセラーで、ワインを買ったことがある。
でも、帰りのリスボン空港で、没収されてしまった。
水の持ち込み禁止が始まったばかりの頃で、ペットボトルはダメだと知ってはいたが、封の切ってないワインなら大丈夫かなと思ったのが甘かった。
手荷物がダメなら、スーツケースに入れておけばよかったと後悔したが、すでに遅かった。
その当時、没収品のワインが山のように積まれているのを見たことがある。
みんな、考えることは同じなのかもしれない。
あの没収されたワインはどこにいくのだろうか。
《只で頂いた幸せ》
かつてのワインの積み出し桟橋の一段高い所に、これもかつてのワイン樽倉庫を改装した〔星5つのVINTAGE HOUSE HOTEL〕は全室リバービューの客室数43部屋、
野外プール、ワインショップも当然ある、白く細長い洒落た3階建て建物の前を通り、100mほどの鉄橋の先は、広い青空に白いぷかぷか浮き雲が流れ、
迫って見える段々畑の葡萄の緑葉が数えられるほどに繁り川風に揺れている。
そんな葡萄畑の段々模様が美しい小山に囲まれた景色の中、鉄橋を渡ってすぐ左手のドウロ川岸に〔WINE SHOP〕の看板。
門を入っていくと川岸に色とりどりの薔薇が咲く〔QUINTA DAS CARVALHAS〕の平屋。
ここで頂いた試飲の〔ポートワイン〕の風味は、ルビー色のビンテージを口にした途端、滑らかで甘美な香気と喉越しが堪らない美味さ。
甘ったるいと言う人もいるだろうが、複雑な芯の通った甘さこそが重要。野老は、好きだった。
〜追伸〜
前に〔ポルト〕からバスで50分の「守護聖人は縁結びの神様」で知られる〔アマランテ〕のタメガ川沿い葡萄畑近くで、遅い昼飯で入った食堂。
そこでの家族の会話が今も耳にほんわかと残り、映像で残しておけなかった悔しさが今でも心底に刻まれている。
客足もなくなった昼下がり。
食堂の片隅のテーブルで遅い家族の昼食中。『すみません』を連発して離れたテーブルに着き注文した。
気の良さそうなご主人が席を立ち厨房に入る。
30代の奥さんと5歳くらいの男の子とおねいちゃん12歳ぐらい。奥さんの低い声が徐々に大きくなた。
「水飲んじゃ駄目っていったでしょ。高いんだから(ムカッ!)。
〔うちで作った〕ワインなら、只よ、只!」。
それを聞いて、野老は「うちで作った」=「自家製」の単語(caseiro)に異常反応した。卑(いや)しさが成せる臭覚である。
『Vinho de Casa(ヴィーニョ ドゥ カーザ) Vinho tinto(ヴィーニョ ティント) ハウスワインの赤ワイン』単刀直入というか、単語並べというか、通じればそれで良しだった。髭の中に笑顔いっぱいで、自家製赤ワインをワイングラスに並々と。
一口含んで、喉に呑み込んだ。
野老は正直に『エ ムイント ボン!』と思わず口に出た。感謝を込めて、もう一度日本語で言った『凄く 美味い!』と。
『これは あなたが 作ったのか?!』「Sim シン=ハイ・・・Obrigado オブリガード=ありがとう」と 彼も嬉しそうだった。
一杯1ユーロ(130円)。エッ?! 思わず野老は、もう一杯と言ってしまった。
●漢字に(・・・)と読みを容れていますが、読者の中に小・中学性の孫娘達がいますので了承ください。(野老)●
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
・・・・・・・今回分は2019年8月に掲載いたしました。・・・・・・・
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