「ポー君の旅日記」 ☆ 再々訪問のベレンの塔と海洋博物館のリスボン24☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2018紀行文・25≫
=== 第4章●リスボン起点の旅 === 明日は帰国の午前中、世界遺産〔ベレン地区〕でエンリケ航海王子の偉大さを、ふたたび認識したのだった
《粋でお得な日》
〔粋でお得な日〕が、首都リスボンにはあるらしい。
月初めの日曜日には、市民や観光客にプレゼントがあるというのだ。
老舗カフェ早朝ご来場100名様に限り、ポルトガル生産世界一の〔コルク製品〕である「ボードに、傘に、帽子に、コルク葢使用の高級ポートワイン」プレゼント!。
そんな夢のようなことを毎、月初め配るはずはない。
冗談抜きで〈博物館や美術館、修道院〉などの入場料が月初めの日曜日は無料(只・ロハ・タダ)のところがあると、只で頂ける宿のモーニングタイムで、
バターとチーズとハムを挟み込んだ2個目のパンを口いっぱい頬ふくらませ、写真家は自信を持って野老に言った。
奇しくも今日は、月初めの6月3日の日曜日であった。
入場料は10ユーロ、8ユーロ、6ユーロ、5ユーロ、3ユーロ(3ユーロ×130円=390円)などいろいろだが、それが只になるのだ。
塵も積もれば山となる。頭をフル回転させ行動する日常茶飯事の一瞬の富を逃してはならない。
それが、旅だった。
敏感な感度良好なアンテナを張りめぐらす情報収集こそが、大切な旅の一因だ。特にケチケチ旅は、いかに無駄なく安く有意義な日々の撮影取材に専念できるかが鍵だった。
〈ケチは美学〉だと、恥らうことなく終始する行動こそ18年間ポルトガル各地を歩き周り、続けて来られた原動力だと、野老は思う。
明日19日目早朝は、帰国の旅立ちである。
今夜で6泊目になる首都リスボンの宿〔ペンサオ・ノヴォ・ゴア〕は、〔バイシャ地区〕の〔フィゲイラ広場〕南側にあり目の前を路面電車12番と15番が走る便の良い宿だ。
12番はフィゲイラ広場発着でアルファマ地区を1周。15番はフィゲイラ広場からベレン方面へ。
我らはテージョ川6km下流にある世界遺産の〔ベレン地区〕方面行きのモダンな〔wi-fi新型車両〕の路面電車15番に乗る。
今回リスボンに着いた当初は、路面電車でwi-fiが使えるとは想像もしていなかった。
しかも、只。ただただ驚き、大袈裟に言ってwi-fiに限り日本は遅れていると思った。
そんなwi-fiが軽やかに飛んでいる車中で、日本人の姿を久々に見た。ご夫婦のようだ。
30分ほどでベレン通りを走る右手車窓に世界遺産の〔ジェロニモス修道院〕の白い大理石の艶やかな建物が見えてくる。
〔南門〕前には10時入館というのに長蛇の列ができていた。
「けいの豆日記ノート」
かなり前ではあるが、リスボンの博物館美術館が、毎週日曜日は無料になっていた。
なので、リスボンの日程に日曜日を入れて、その日は博物館めぐりに当てていた。
といっても、博物館が近いわけでもなく、見学も時間がかかるので、よくまわれて3カ所くらいであった。
そんなラッキーな日もいつのまにかなくなってしまい、現在は月の初めの日曜日だけになった。
月初めだけであると、その日に設定するのが、むずかしくなる。
今回はその日曜日を組み込んで計画してみた。
《出合い》
鍔広(つばひろ)のオレンジ帽子が、迷子防止のための今日の迷子帽子。
迷子になるのは、方向音痴の野老(ヤロー・78歳)。
そのための〔目印帽〕だけではない。30mほど離れてもポルトガルの人は〔派手派手鍔広帽子〕などかぶっていないから、ボディーガードマン(野老)の防御に役立っている。
何処にいても旅には危険が伴うものだが、18年間怖い目に一度も合っていない。
その原因は明瞭だ。
ケチケチ旅人は貧乏たらしく見えているのか、写真家の赤や青やオレンジの目印帽が計算通りの目立ち過ぎか、将又(はたまた)眼光鋭いガードマンに恐れ慄き、
手も脚も出せないためかも知れない。
路面電車15番はジェロニモス修道院を過ぎた〔ベレン停留所〕で停まる。ここで半分以上の乗客は降りる。
降りようとする野老は、写真家に制止を食う。『あの混雑に並ぶつもり』一喝だ。先々を見据(みす)え、即決判断する行動力を問われた。
次の〔プリンセーザ停留所〕で乗車客のほとんどを降し、路面電車は西の折り返し地点に向かう。
ここで降りれば、目的地〔ベレンの塔〕は目の先鼻の先だった。
停留所前の5星ホテルパラシオ・ド・ゴヴェルナドールを素通りすると、芝生を敷き詰めた広場の先にカイス・ド・ソドレ駅からカスカイス行きの列車線路に
沿って上下高速道路が両端金網みで仕切られ、その先にテージョ川に面して建つ〔ベレンの塔〕が見えた。
金網に仕切られた鉄道と高速道路を渡る〔歩道橋〕口で偶然出会ったのが、路面電車の中で見かけた日本人ご夫婦だった。
今まで日本人の観光客には何人か出会い、10分ぐらい話をした機会はある。
長距離バスターミナルや列車車中、ホテルのモーニングタイム、何処かの広場などだったが、会話は全て相棒ひとりにお任せ。
そのため現地でお会いした日本の方々の記憶が薄い野老だった。
旅先での長話は御法度。情報を聞かれた時は、相棒は楽し気に親切に伝えた。
決して相手の旅のリズムを壊してはならない。深入りしないのが旅人の礼儀だと野老は思う。
名刺交換をして別れた。
世界に二人で出かける旅を楽しんでおられる、人柄の良い東京品川在住の壮年仲良しご夫婦だった。
「けいの豆日記ノート」
ベレンの塔は、ジェロニモス修道院からかなり離れているので、はじめに遠いところのベレンの塔をみたいと思った。
ホテル近くのファゲイラ広場から始発の路面電車に乗ったのだが、後方に日本人が乗っていたことは、その時は気がつかなかった。
電車から降りると、日本人らしきふたりがいて、行く方向が同じであった。
これも何かの縁であるので、いろいろとお話をすることになる。
多くの国の中からポルトガルを選んでくれたことはとてもうれしいことである。
《ベレンの塔》
大西洋まで6km、テージョ川の中洲に建ちテージョ川を出入りする船舶を見守り続けてきた、大西洋の玄関口の守護神である〔ベレンの塔〕。
正式名称はリスボンの守護聖人の名にあやかり「サン・ヴィセンテの塔」と呼ばれている。
1515年から1519年にかけてマヌエル1世の命で建てられた。
種子島に鉄砲の伝来(1541年)する、24年ほど前だ。
大西洋から12kmテージョ川上流にあるリスボンの港とベレンの造船所を守るために建てられた見張り塔だったのだ。
日曜日のためか、ポルトガル世界遺産のひとつ〔ベレンの塔〕にも長い列が出来ていた。今日のこの時刻は引き潮時らしい。
塔の建物に渡る専用通路の橋桁(はしげた)は丸裸だ。
長い列の先に仲良しご夫婦の姿があった。
10時入門の第1回目で入れたが、入場料は取られた。
入場料は6ユーロと3ユーロ(65歳以上半額・パスポート提示)。
月初めの日曜日は『只って聞いていたのに!』と、ちょびっと写真家ご機嫌斜めのご様子だ。
塔の入り口にマヌエル1世のエンブレムである天球儀、キリスト騎士団の十字架などマヌエル様式が目立つ。
「マヌエル様式」とは、15世紀後半から16世紀にポルトガルで流行した〔マヌエル1世建築様式〕のことだ。
後期ゴシック建築を基に天球儀、鎖やロープの結び目、サンゴなどをモチーフにした〔ポルトガル大航海時代〕の繁栄を象徴するポルトガル独自の建築様式である。
地下には窓からテージョ川に向かって17基の大砲が並ぶ、大航海時代の装飾で覆われた高さ52mのベレンの塔は、河口を守る要塞として造られた。
大航海時代には船乗りたちを見送り、そして出迎えてきた故郷のシンボル的存在でもあったという。
後に船の通関手続きを行う税関や灯台としても使われる。
夕焼けの中で見る赤く染まったベレンの塔は、まさに〔テージョ川の貴婦人〕か。その夕日を撮るために、試行錯誤したかつての〔撮影取材旅〕が懐かしい。
礼拝堂の屋上テラスから一望できるテージョ川はまるで海のようだ。上流には〔発見のモニュメント〕や、
1966年に開通した全長2277mの〔4月25日橋〕、それにテージョ川南岸に高さ110mの巨大なキリスト像〔クリスト・レイ〕、川を行き交う観光船やヨットの帆をざっと数えて30帆。
川幅がとてつもない広さで迫る景観にこころが揺れる。上流1kmほど先の〔発見のモニュメント〕に向かった。
「けいの豆日記ノート」
ベレンの塔にも列ができていた。
開館前の早めに並んだので、最初のグループに入ることができた。
ベレンの塔は小さく、らせん階段もひとりギリギリの幅なので、1度に入場できる人数を制限しているらしい。
入場料無料を期待していったのだが、しっかりととられた。
無料になるのは、該当者の制限があるようで、全員が無料になるわけではなかった。
そのへん、はっきりしてほしいと思う。
《壮絶な思い出》
テージョ川岸上空はほとんど怪しげな雲に覆われていた。
塔から歩いてモニュメントまで経験で10分ほどかかることは知っていた。
かつて、発見のモニュメントの撮影取材を終え、ベレンの塔の夕景を撮ろうと向かった途端、腹が痛くなりトイレを捜す。
あるわけがない、広々とした川っぺりに。窮地の咄嗟(とっさ)、野老は「川岸のレストラン・・・・!」と一声かけて走る。
もう途中で、我慢できず、この広く人出も薄い芝生広場の何処かに穴掘って・・・。
冷や汗たらたら地獄の先に、レストランの灯り。耐えに耐え、間に合った安堵(あんど)。
手を洗って、カウンターのおじさんに「オブリガート!」と大きな声で礼を言う。
夕食時の客で賑やかになっていた。生ビールのコックを握りしめたおじさんはウインクを投げた。
両手がふさがっていたからだ。写真家は夕陽を撮っていた。
日本と違い、こちらの夕焼けは夕方ではない。夜の8時半過ぎ頃だった。
広い川幅いっぱいのテージョ川には白いヨット群に〔4月25日橋〕、2277m先対岸には〔クリスト・レイ〕、薄暗い雲を川面に映した黒っぽいテージョ川の流れ。
そんな風景を、ボヤッと見詰めていた。急にだった。
予期せぬ速さだった。ヨット群が上流から押し寄せ眼前を横切る迫力にのけ反り、帆の風を切る音を30帆ほど聞いた。
大型映画スクリーンの最前列座席で見ているようであった。
石畳の川岸遊歩道の300m先には船の形をした〔発見のモニュメント〕が見え、歩いて行く人々の中に写真家、その先に歩いて行く仲良し夫婦の姿があった。
「けいの豆日記ノート」
以前、日の入り時のベレンの塔を見るために夕刻に来たことがある。
リスボンの最終日であり、明日の早朝には、帰国する前日であった。
なかなか見ることのできない夕日を見てみたかった。
ちょうど、ベレンの塔の横のテージョ川の河原から夕日が沈むのが見えた。
空が真っ赤になっていく。
リスボンでの夕日は見たことがなく、感激物であった。
振り返ると、ベレンの塔が黄金に輝いていた。
夕日が沈んだ後、ベレンの塔のバックの雲が真っ赤になっており、まるで塔が燃えているようであった。
その夕日が忘れられず、もう一度見てみたいと思うのだが、未だに見ることができないでいる。
先回の旅で、夕刻にベレンの塔方面に出かけていったが、日の沈む場所が違っていた。
テージョ川の下流に沈まないのである。
ヨットバーバーの向こう側の山方面に沈んでいった。
季節が違っていたので、太陽の沈む場所も違うのを考えていなかった。
《発見のモニュメント》
1960年に建てられた白亜の記念碑が、歩いて行く写真家越しに大きく近づいてきた。
ヨーロッパ大陸の大航海時代の幕開けの先陣を切った〔ポルトガル大航海時代〕の立役者〔エンリケ航海王子〕の没後500周年に当たる、今から58年前に造られた「発見のモニュメント」である。
高さ56mの大海原に出航する帆船の先頭で、自らが考案した〔カラベラ船〕の模型を持つ鍔広帽子姿の人がエンリケ航海王子(1394〜1460年)だ。
発見のモニュメントは、輝かしい大航海時代の記念碑なのだ。
もし、大航海時代の大成功がなければ、ユーラシア大陸最西端の日本の4分の1の小さな国はどうなっていたであろう。
その300年以上も続いた〔ポルトガル大航海時代〕に活躍した〔航海者・学者・詩人・宣教師・エンリケ航海王子の次兄ペドロ王子や末弟フェルナンドや
母親ジョアン1世皇后のフィリバ王妃〕たち22人が左右に乗っている。
〜大航海時代の人びとと来日者〜
● ヴァスコ・ダ・ガマ(1469〜1524年)〔15〜17世紀に栄華を誇る基盤を築く〕〔初めてアフリカ南岸周りでインドに航路を開く〕
● ルイス・デ・カモンイス(1524〜1580年)〔ポルトガル最高の詩人〕〔大航海時代の叙事詩「ウズ・ルジアダス」〕
● フランシスコ・ザビエル(1506〜1552年)〔日本に初めてキリスト教伝承〕〔1549年に鹿児島に来航〕
● ルイスフロイト(1532〜1597年)〔1563年に来日以来、生涯を日本で布教〕〔織田信長や豊臣秀吉にも謁見〕〔著書「日本史」は当時の様子を海外に知らせる貴重な史料〕
写真家と東京ご夫婦は、お一人5ユーロのエレヴェーターに乗って52mの塔に登って行った。
野老はモニュメント前の広場に描かれた大理石で作られたどでかい当時の世界地図を楽しんでいた。
ポルトガルが発見した国に年号が書いてある。日本地図には〔1541〕となっている。
なぜ〔1543〕ではないのか。鉄砲伝来より2年前に発見されていたのか。
後で分かったが、種子島上陸に先立ち、ポルトガル船が豊後の国に漂着していたのだ。知らなかった。
「けいの豆日記ノート」
エレベーターに乗って屋上まで出る。
屋上は狭く移動するのもたいへんである。
テラスのコンクリートの壁の上に柵があるのだが、ヨーロッパの背の高い人用に造ってあるのか、外の景色が目線では見えない。
なので、カメラを頭の上くらいに持ち上げて適当に撮るしかない。
広場の世界地図が見えるはずなのだが、まったく見えなかった。
後から、カメラの画像を確認するしかなかった。
《海洋博物館》
12時10分、東京のご夫婦には声をかけず一人で降りてきたと相棒。
声を掛けた途端、相手の旅を壊さないとも限らない。
黒と白の石魂を敷き詰め、大海の波模様が描かれ、その波に囲まれ大きな世界地図も石魂の色を組み合わせ描かれている。
その上を観光客は自国の地図の上で小踊りする。
いちばん賑やかで多人数で占められている地図は勿論、中国の観光団の皆さま。
少しばかりの青空が覗くが、鼠色の雲が覆いかぶさる発見のモニュメント前広場。
賑わう観光客の背景には、世界遺産の〔ジェロニモス修道院〕の代理石の白い建物が迫って見える。
広場の先にある、鉄道と高速道路の金網フェンスをくぐり抜ける〔地下道〕。
喜々として地下道を潜ると、大きな噴水があるインペリオ広場に出る。
白アカ黄色の蓮が咲き、思わず鴨の雛が噴水池で泳ぐ姿に目が釘ずけの野老だった。
未だ南門は長蛇の列。ジェロニモス修道院の長い建物が切れるとモザイク模様の美しい広場に出る。
写真家は周囲を撮りながら、スタスタと先に見える〔海洋博物館〕に入って行く。
恥ずかしながら、今回初めての入館だった。
もし天空が青空だったら、南門に長蛇の列がなかったら吸い込まれることはなかったろう。
だが、何が幸わいか、ビンゴ!だった。
まず、入場料、〔只〕だった。
もう写真家のこんな素敵な〔満面の笑み〕は初めて、という天使の輝きであった。
ここは〔月初めの日曜日〕が生きていた。写真家の収集した情報は確かだったと野老は胸なぜ下ろす。
「けいの豆日記ノート」
海洋博物館は、何度も目の前を通っているのに、入ったことがなかった。
ジェロニモス修道院など見ていると、それだけで時間が経ってしまい、海洋博物館まで手が回らなかったこともある。
今回も予定にはなかったのだが、ジェロニモス修道院の長蛇の列を見て、急遽、見ることにした。
並んでいる時間がもったいないし、以前に2回見学したこともあったからである。
入り口で入場料を払おうとすると・・・ いらないらしい。
ここだけ、月初め日曜日無料が適用されていたのだった。
「どこから来たのか?」と国名だけ聞かれ、中に入った。
入り口に大きなエンリケ航海王子像が、中世の世界地図を背負いどっしり座っていた。
エンリケ航海王子のトレードマーク鍔広(つばひろ)帽子をかぶる凛々しい姿。
野老はしばらく見詰めていた。ポルトガルのあちこちで像の顔はよく見ていたけれど、でもこのご対面は不思議ともやもやと妖しく迫って見えた。
日本から18年にもわたり老体鞭打って謁見に来た野老を優しく迎えてくれたような、そんな気分にさせてくれた。初めてお会いしたような嬉しさをくれたのだ。
この姿は何処かで会っていると思い、今回の【〔紀行文・7〕☆ユーラシア大陸最西南端のの町サグレス2☆】で、サグレス岬の広場にあるエンリケ航海王子の像に似ていると思い出す。
〔15世期からのポルトガル大航海時代を築き上げたエンリケ航海王子の立像が、青空になってきたポルトガルブルーの大空にユーラシア大陸最西南端サグレスの象徴のように浮かんで見えた〕と
書いてあったが写真を見ると、こっちは立像で左手に持っているのはくるくると半巻きした書類で、今、目の前のエンリケ航海王子は座姿で右手にコンパスを持ち、こちらの方が凛々しい姿だった。
エンリケ航海王子は第一線を退くと最西南端の大西洋と地中海がぶつかる〔サグレス〕岬に航海学校をつくり優秀な人材を育て上げ、ポルトガル大航海時代の基盤を成したと聞く。
惜しみなく広大な〔海洋博物館〕は、当時のエンリケ航海王子の活躍が絵や地図、カラベラ船のモデルがいくつも展示されて、
その実物大の姿や装飾の細やかさ、船の原動力であるオールの〔長さ大きさ数の多さ〕に目を見張る。
素直に、見て飽きない。海洋に、このまますぐにでも船出できそうだった。
船員姿の係のおじさんが案内してくれる。
エンリケ航海王子が考え出した試行錯誤の〔カラベラ船〕に、自慢の花が咲く。
『操船が容易、船足が早く、逆風でも航海できるカラベラ船を開発もした。
15世紀になると幅8m、長さ21mに、マストが3本帆の組み合わせは驚異の船。
カラベラ船がなければポルトガル大航海時代はなかった』とさえ言って、ニカッと笑う。
そして、1254年ヴェネチア生まれの〔マルコ・ポーロ〕の話が耳に残る。
マルコ・ポーロといえば、野老の時代の「少年」や「少年クラブ」の月刊誌の歴史物の主役だった。
活躍する夢の大冒険の挿絵抜群での物語に、心奪われ読み込んだものだった。
〔マルコ・ポーロ〕といえば、「東方見聞録」。
その中で《黄金の国ジパング》をヨーロッパに最初に伝えた〔本〕として有名でもあったようだ。
この本で後のアメリカ大陸発見のコロンブスや世界一周航海したマゼラン(1480〜1521年)など多くの人を黄金の国ジャパングに心を走らせたと聞く。
ひょっとして、エンリケ航海王子の頭の中にも〈目的地は日本〉に向かっていたかもしれない。
鎖国日本と交流を始めた国は〔ポルトガル〕が最初だった。
「けいの豆日記ノート」
博物館の中は、思ったより広く模型や地図や道具など、船の好きな人なら何日みても飽きないだろうと思った。
別棟に実物大の船や飛行船もあり、迫力もある。
写真撮影が自由なところも良かった。
ポルトガルの美術館博物館は写真撮影は大丈夫なのだが、まれに禁止の場所がある。
前日に訪れたアズレージョで有名なマルケデス・デ・フロンテイラ宮殿も建物内は撮影禁止だという。
ちょうど、建物内は工事中だったので、庭園だけしか見られなかった。
年代物の調度品より、アズレージョの方に興味があったので、庭園だけでも充分であった。
《ポルトガル絶頂期の産物 ジェロニモス修道院》
〔ヴァスコ・ダ・ガマ〕のインド航路発見を記念してエンリケ航海王子が建設した「礼拝堂」をもとに、〔マヌエル1世〕によって造られた「ジェロニモス修道院」。
東方交易や植民地支配で得た巨万の富が建設費として投入され、1502年の着工から300年以上もの年月を費やし、19世期に完成させたポルトガル建築の最高峰と讃えられ、
1983年にベレンの塔と共に〔世界遺産〕に登録された。
13時30分、海洋博物館を出て隣の長い建物伝いに〔南門〕に向かう。
空は薄い雲に変わり青空が多目になっていた。遠目に見ても南門周りの入場者はかえって増えていた。
鍔広オレンジ帽が20m先を撮りながら進む。野老が後をついて来ているか確認する素振りもない。
阿吽の呼吸で毎度の旅を続けている。我らは旅行者ではない。
旅人だ。旅人は自由だった。
束縛なく目的に時間を取れた。撮りたい写真が撮れるまで歩けた。
曇った日や雨の日は、それなりに過ごす。
野老は喉が渇き、水を飲もうとすると『高いんだからビールにして〜っ!』仕方なしにビールを飲んで、至福のうたた寝だった。
正門〔南門〕の大理石の彫刻を写真家は追う。
聖人の彫刻と様式の特徴で飾られた華麗な門。
二つの大門の間にある柱の上にはエンリケ航海王子の姿がある。
堂内に入ると入り口付近に英雄の墓が二つある。
右手は航海者のヴァスコ・ダ・ガマ、左手に詩人のルイス・ヴァス・デ・カモンイス。
エンリケ航海王子が始めた国家事業は、その後アフォンソ5世、ジョアン2世、マルエル1世へと王室の後継者に引き継がれていく。
そして、エンリケ航海王子以来、70年間で蓄積した貴重な海外情報を基に、ポルトガルはわずか半世紀のうちにブラジルからインドまで広がる海洋王国を築き上げたのだ。
『西門から入るよ』。
南門に並ぶ長蛇の列を割って、1517年に建立された門である〔西門〕に、すたすた突入。
サンタ・マリア教会などの内部はここから入れると、写真家が言う。入場料無料だった。
〔サンタ・マリア教会〕は、修道院に付属する教会だった。
ゴテゴテした装飾もなくすんなり石積みされ、綺麗な重厚な高い内部は、ヤシの木をモチーフにした支柱が天高く伸び、マヌエル様式の彫刻は見事である。
右壁に掲げられる3連のステンドグラスが艶やか。左からマヌエル1世、聖母マリア、王妃マリアだ。
昼を食べていなかった14時15分。
車輌ボデーに若い人物像が描かれた15番路面電車に乗った。
白い雲を青空が旨そうに喰って行く昼下りであった。
●漢字に(・・・)と読みを容れていますが、読者の中に小・中学性の孫娘達がいますので了承ください。(野老)●
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
今回分は2020年8月に掲載いたしました。
|