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(中世が同居する町・エヴォラ)
Portugal Photo Gallery --- Evora
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☆エヴォラの説明 (写真の上をクリックすると大きな写真が見れます。)☆
城壁に囲まれたアレンテージョの古都エヴォラは、リスボンからバスで1時間40分。
ローマ時代からこの地方の商業の中心として栄え、学問の府である。
ローマ時代・中世・現代、それぞれの時代を物語る建造物が同居している。
情緒あふれる家並みが続き、町歩きが楽しく見どころがいっぱいである。
町全体が博物館のようで1986年には世界遺産に登録された。
「ポー君の旅日記」 ☆ 中世が同居する町・エヴォラ ☆ 〔 文・杉澤理史 〕 ローマ時代の城壁に囲まれたエヴォラに入ったのは、スペイン国境の町エルヴァスからバスで1時間半の、 2003年2月15日(土)の午後2時30分だった。 《アレンテージョ地方の中心都市、エヴォラは1584年9月に日本から海を渡って来た天正遺欧少年使節が訪れた地であった》 バスは城壁の外のバスターミナルに着いた。 目の前に大理石の墓地が見え、その向こうに城壁が連なって見えた。 石畳をガラガラと100mも旅行バックを転がして城壁の中に入った。 空は青く、風もなく、暖かい冬のエヴォラが二人を迎えてくれた。 予約しておいたホテルで荷を解いて町に飛び出した。 一刻も早くエヴォラの町に溶け込みたかった。ローマ時代、中世、そして今。 一つの城壁の中にぞれぞれの時代を物語る建物が同居する、まるでそのまま博物館のような町を体験することが出来るからだった。 勿論、エヴォラは世界遺産に登録されていた。 実は2002年2月3日にこの町に来ていた。だが、3時間しかいられなかった憧れの町だった。 帰国する前日にリスボンからバスに乗り余裕の一日まるまる撮影取材のはずだったが・・・。 相棒の写真家はバスが走り出すとその振動でいつものように眠りに落ちた。 車窓は青空に溶け込んでオリーブの木が畑のように点在して過ぎ去っていった。 ポーはガイド本のエヴォラの地図を見ていた。その時だった。ふと、車窓を見た。 墓地が見えた。そして、バスターミナルに入っていくバスの中で叫んだ。 『起きろ!けいちゃん!』目を丸くこじ開けた相棒を引っ張って、慌てて下車した。 ターミナルの前に墓地が迫ってきたのでエヴォラのバスターミナルだとポーは判断した。 しかし、そこはエヴォラではなかった。 『ポー、雰囲気が違わない?』『間違いないって!ターミナルの前に墓地があるだろ』 ガイド本のエヴォラの地図を相棒に見せた。 地図の城壁の方向に歩いていくと振興住宅地に迷い込んだ。 「けいの豆日記ノート」 『ガ〜ン!ここはエヴォラじゃないよ。何処に城壁があるのよ』
地図では町を城壁が囲んでいるが、目の前の風景には城壁がない。
そこがエヴォラの手前の町とわかるまで2時間経過。
相棒は切符売り場にとんでいった。
ちょうど昼の時間帯で、バスがこない。
『つぎのバスは2時間後だってさ』
時間がもったいない。仕方なしに、時を金で買った。 「けいの豆日記ノート」 その日、泊まったホテルはこんな具合だったが撮影取材は充実していた。 アレンテージョ地方の中心地がエヴォラ。その中心がジラルド広場。 広場は市民の憩いの場であった。いつ来ても人々であふれていた。 広場に設置された丸テーブルにはワイングラスが並び、会話が弾む人々。 焼栗の煙と香りを漂わせる焼栗屋のおばさんの客待ち顔。やかましい観光客の団体。 ふたりが一体となってキスをする若者。走る子供達。待ち合わせでたたずむ少女。 ベンチを指定席にするハンチングをかぶった年寄り軍団。寝そべる犬。 この広場から放射状に石畳の路地がのびていた。まるでクモの巣みたいに。 その一つの路地を北東に向かうとカテドラルがある。 12〜13世紀のロマネスクからゴシックへのかどきに建てられた大聖堂だ。 中が凄い。八角形のドームが高く迫り装飾された壁面の美しさが圧倒する。 その調和美に声も出ない。大きなパイプオルガンが目を引く。 大正遺欧少年使節の一人がこのパイプオルガンを見事に奏でたと聞く。 1584年9月のことだったと知る。 すぐ近くに15世紀に建てられたロイオス修道院の跡がある。 今は国営ホテル・ポザーダになっていた。 ポザーダは宿泊しない限り中を見物できないが、ここは自由に入れるから嬉しい。 ポザーダは憧れのオアシスだ。(そのうち宝くじを当てたら・・) 「けいの豆日記ノート」 ポザーダの前にディアナ神殿の円柱が青空に浮かぶ。 2〜3世紀にかけてローマ人が建てたコリント様式の神殿だ。 月の女神ディアナに捧げられたものとされている。 中世には要塞として使われたおかげで、比較的保存状態がよく、 イベリア半島に残るローマ神殿の中では、その点において1番といえる。 円柱の土台と柱頭にはエストレモスで採取される大理石が、柱身には御影石が使われているという。 前年は中に入れたが柵に囲まれていた。当然だ。 翌朝、2月16日(日)は近所のホテル探しをした。 バスターミナルからの道の途中にホテルがあること確かめてあった。 小奇麗で安く、シャワーのお湯の熱さも確かめ、ヒーターの調子も確認し、決めた。 そして、そっけないホテルに戻りキャンセルを告げた。 文句をいわれるかなと思ったが意外とあっさりとしていた。 こういうことは、日常茶飯事なのかもしれない。 30mの引越しを朝の9時に終えた。 『これで、よし!』と今夜の宿を確保した相棒は、心は軽く、身は重く?フイルムの数をチェックして、出陣だ。 快晴。狭い石畳の路地から路地を《犬》は迷うことなく軽やかに突き進む。 市場の場所をめざしていた。でも市場は工事中だった。 ぶらぶら地図を見ながらポーは後を追う。ジャルダン公園に出た。 冬なのに緑の多い空間だった。放し飼いの孔雀を見つけた 相棒の仕事が始まった。もう、ここからは写真家の放し飼いだ。 満足するまで獲物から離れない。ポーは待つことを知っていた。 「けいの豆日記ノート」 絵を描いているドイツ人を見つけた。昨日、ポザーダのテラスでスケッチをしていた人だった。 『ボン ジィーア』おはようぐらいポーだって言える。 アドレスの交換をした時、相棒がニコニコしてやってきた。 満足な写真を撮り終えた時の表情だった。 ドイツ人がポザーダに泊まり二週間のスケッチ旅行中だと知ると『うらやまし〜』と吐いた。 ピンク色に咲き誇るアーモンドの木を背景に記念写真を撮った。 「けいの豆日記ノート」 南側の城壁の外から軽快な音楽が流れてきた。 小さな城門をくぐって広場を色鮮やかに飾りつけたアメリカンドリームに飛び込んだ。 メリーゴーランドや空中を回転する椅子で子供達が歓喜の奇声を発していた。 楽しむ笑顔が青空に舞っていた。大きなトラックやトレーナーが幾つも並んでいる。 ポルトガルなど近隣の国の町から町を移動巡回しているのだろう。 ドリーム会場の横で陶器の露天が4店行儀よく並んでいた。 場違いではあったが陶器の絵柄は華やかな色合いだった。 ここにも大きなアーモンドの木が花を咲かせていた。ここは、まるで春だった。 「けいの豆日記ノート」 城門を再びくぐりサン・フランシスコ教会を目指した。 16世紀に立てられたという教会だが目玉はなんといっても人骨堂だ。 5,000体もの人骨やどくろが天井から壁にぎっしり埋め尽くされていた。 壮絶、不気味。修道士の黙想場だという。 (入場料1ユーロ、撮影料0・25ユーロだった) しかし、教会の内部は神秘的であった。 天窓を飾るステンドグラスの色彩が内部の壁や柱、彫刻に投影され、その色合いの変化に現実を忘れさせる感動をくれた。 夕食は「中華店・財源酒楼」。中華店を捜してみつけた店だった。 安く、一人前の量が多く、美味い(といっても日本と比べてはいけない)。 ただ、こちら旅人の懐事情なのだから。 たらふく食べて、飲んで、この日は9・98ユーロ(1297円)。 働く中国三世の女性達も気さくで可愛い。 店内に流れるテレサ・テンの歌声になぜか泣けてきたポーであった。 「けいの豆日記ノート」 夕食の後、町の中心のジラルド広場で行われていた反戦コンサートを聴きにいった。 何組もの若者が広場の中央に仮設されたステージで星の輝く夜空に向かって熱演だ。 200人ほどの観衆は犬を連れた人、連れ添う老夫婦、丸テーブルを囲みワインを楽しむ観光客などが 夜空の下で繰り広げられる若者達の歌声に酔いしれ、そして広場はダンス会場になった。 アメリカ反戦集会が高齢者のダンス会場になる。 それが愉快でほのぼのし、気持ちがよかった。 相棒はステージの上に這いあがり、踊る観衆を撮っていた。 演奏する若者達に《折り鶴》を20羽ほど差し出していた。 撮影のお礼だった。広い広い市民の広場が星空の下で輝いていた。 その夜は引越ししたホテルで熱いシャワーを二日分あびて、ゆっくり眠った。 翌日、2月17日(月)。5泊の予定を2泊でエヴォラを切り上げ、次の予定地モンサラーシュに行くことにした。 ホテルは予約していない。だから、切り替えられた。 モンサラーシュで1泊してまた、エヴォラに戻り1泊する予定なので、大きな荷物を預かってもらった。 全部を持っていくのは、たいへんだと判断したからだ。 「けいの豆日記ノート」 バスターミナルでモンサラーシュ行きの時間を確かめた。 13時発まで直径1400mのエヴォラの城壁の町を歩き回った。 昨日は22000歩近く歩いていた。相棒は町の北にあるカルヴァリオ修道院を目指した。 宿から地図上では直線で1000mはあった。 路地から路地を抜け、相棒は知り尽くしたわが町を歩くように写真を撮りながら進む、《犬》だった。 幾つもの『ボン ジーア』を出会う人に投げかけ、『ジャポネーズ』と応え、修道院に着いた。 16世紀後半に建てられた修道院の入り口をやっと探し小さなベルボタンを押した。 3度、押した。目の優しい小柄なシスターがやっと出てきた。 見物を依頼すると心地よく案内してくれた。 内部は狭く、内庭からの陽射しを取り込む回廊の窓が印象的だった。 シスターたちの日々の質素な生活が忍ばれる修道院であった。 見学は無料であったが、相棒は10ユーロ恥ずかしげに千代紙に包み、折り鶴3羽と一緒にシスターに帰り際、そっと渡した。 当然、昼抜きで、憧れのエヴォラからバスに乗った。
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