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愛しのポルトガル  ポルトガルの世界遺産

 ☆☆リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔☆☆ 
☆☆1983年ユネスコ世界遺産登録☆☆

リスボンのジェロニモス修道院

リスボン

リスボンのジェロニモス修道院

 リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔はUNESCOの世界遺産リスト登録物件の一つであり、その名称が示すように、ポルトガルの首都リスボンのベレン地区にあるジェロニモス修道院とベレンの塔を対象としている。それらは、16世紀ポルトガルで栄えたマヌエル様式の代表的傑作に数えられているだけでなく、かつての大航海時代とポルトガル海上帝国の栄華の記憶をとどめる文化遺産であることが評価され、最初のポルトガルの世界遺産の一つとなった。

リスボンのジェロニモス修道院の正面

リスボン

リスボンのジェロニモス修道院の正面

 聖ヒエロニムスにあやかったヒエロニムス会の修道院で、現在につながる本格的な建設はディオゴ・ボイタクが指揮をした1502年以降のことである。ボイタクに建設を命じたのはポルトガル王マヌエル1世で、その目的にはエンリケ航海王子の業績を称揚する意図などが込められていた。
 ボイタクが指揮を執ったのは1516年までで、それを引き継いだのはジョアン・デ・カスティーリョである。カスティーリョは1551年に没したが、その年にジェロニモス修道院の建築は主要部分の完成を見た。その後も増築などが行われ、19世紀にようやく現存する形に落ち着いた。

リスボンのジェロニモス修道院の回廊

リスボン

リスボンのジェロニモス修道院の回廊

 「ポルトガルが誇るマヌエル様式建築の最高傑作」と評されることもあるジェロニモス修道院の中でも、特に繊細な彫刻に飾られた回廊や、彫像で飾られた南門柱廊を備えた修道院付属のサンタ・マリア聖堂などの評価が高い

リスボンのジェロニモス修道院の回廊

リスボン

リスボンのジェロニモス修道院の回廊

 以前に王家の霊廟だったのはバターリャ修道院だが、ジェロニモス修道院が出来てからはそちらが王家の霊廟となった。この結果、マヌエル1世もジェロニモス修道院に葬られている。著名な人士ではほかにヴァスコ・ダ・ガマ、詩人ルイス・デ・カモンイス、作家フェルナンド・ペッソアらの棺も、この修道院に安置されている。

リスボンのベレンの塔

リスボン

リスボンのベレンの塔と列車

 正式名は「サン・ヴィセンテの塔」、建造は1515年から1521年にかけてのことで、指揮したのはフランシスコ・デ・アルダであった。ジェロニモス修道院と同じく、建設を命じたのはマヌエル1世である。ヴァスコ・ダ・ガマの業績をたたえる目的をこめた灯台だが、テージョ川河口を見張る要塞としての機能も備えていた。当時のリスボンでは、英国やオランダの海賊に対する備えが必要だったのである。
 1755年にリスボンを襲った大地震では多くの建物が被災したが、ジェロニモス修道院とベレンの塔があるベレン地区は難を逃れ、さして損壊を被らなかった。ただし、その地震で川の流れが変わったことで、ベレンの塔は中洲から川岸へと、位置関係を変えた。
 航海に関する事物をモチーフとした装飾があしらわれたマヌエル様式建築の傑作のひとつで、作家司馬遼太郎はその優雅さを「テージョ川の貴婦人」と評した

リスボンの発見のモニュメント

リスボン

リスボンの発見のモニュメント

 付近の発見のモニュメント(1960年)は世界遺産関連文献で一緒に触れられることがしばしばあるものの、世界遺産登録対象ではない。それはインペリオ広場、ベレン文化センターなどとともに、緩衝地域に含まれている。

リスボンの発見のモニュメントと夕日

リスボン

リスボンの発見のモニュメントと夕日

 後ろに見えるのは、テージョ川にかかる4月25日橋である。

リスボンのサン・ヴィンセンテ・デ・フォーラ教会

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サン・ヴィンセンテ・デ・フォーラ教会(Igreja ou Mosteiro de Sao Vicente de Fora)

 サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ修道院 は、ポルトガル・リスボン・アルファマ地区にある17世紀に建てられた修道院と教会。『デ・フォーラ』とは城壁の外側、という意味である。ポルトガル国内で最も重要なマニエリスムの建築物の一つであり、ブラガンサ家のポルトガル王たちの菩提寺である。

リスボンのコメルシオ広場

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コメルシオ広場(Praca do Comercio)とジョン・ジョゼ1世像

 コメルシオ広場は、『貿易広場』という意味である。テージョ川近くにあり、いまだに元の名前テレイロ・ド・パソ(Terreiro do Paco、宮殿広場の意味)が有名である。これは、1755年のリスボン地震で崩壊したリベイラ宮殿があった場所のためである。地震後、広場はポンバル侯の命令によりポンバル街の再建の一部として完全に改修された。

リスボンの勝利の門

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アルコ・ダ・ルア・アウグスタ(Arco da Rua Augusta)

 アウグスタ通りに向かって広場は開き、他のリスボン旧市街とつながる。エウジェニオ・ドス・サントスが考案したアーチは1875年に実現した。このアーチはヴェリッシモ・ダ・コスタのデザインである。時計と、栄光の像と呼ばれるヴィリアトゥス、ヴァスコ・ダ・ガマやヌノ・アルヴァレス・ペレイラ、ポンバル侯の像が立つ。

リスボンのサンタ・エングラシア教会

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サンタ・エングラシア教会 (Igreja de Santa Engracia)

 サンタ・エングラシア教会は、ポルトガルの首都リスボンにある17世紀創立の教会。20世紀に入ってから国立のパンテオン(名士合祀殿)となり、ポルトガルの著名な人物が葬られている。教会はアルファマ地区にある。
 現在の教会の建物は、ブラガの殉教者聖エングラシアに捧げられた以前の教会の替わりである。最初の教会は1568年頃、マヌエル1世の王女マリアが後援していた聖エングラシアに捧げられた。1681年、最初の建物が崩壊したあとに現在の教会の建設が始まった。新たな設計者は、王室建築家でポルトガル・バロック期の重要な人物の一人ジョアン・アントゥネスがおこなった。

リスボンの街並み

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ポルタス・ド・ソル広場から見たサンタ・エングラシア教会

  建設は1682年から、アントゥネスの死んだ1712年にかけ進められた。ジョアン5世は教会に興味を失い、大規模なマフラ修道院に資金をまわした。教会は未完成のまま20世紀まで放置された。20世紀半ばになりドームが加えられ、教会は1966年に再び落成された。

リスボンの闘牛場

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カンポ・ペケーノ闘牛場( Praca de Touros do Campo Pequeno)

 共和国大通り(Avenida da Republica)沿いのカンポ・ペケーノ広場にある。スペインのマドリードの闘牛場を参考に、1890年から1892年にこの地に建てられ、2006年に大規模な改築が行われた。改築後は、闘牛だけでなくコンサート等各種イベントの開催も可能な施設となっており、地下は商業施設やレストラン、駐車場となっている。

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