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(聖母マリアの奇跡・ファティマ)
Portugal Photo Gallery --- Fatima
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☆ファティマの説明 (写真の上をクリックすると大きな写真が見れます。)☆
リスボンから、バスで1時間30分ほど。トマールからは40分で行ける町である。
聖母マリアの奇跡が起こった聖地として有名である。
1917年3人の子供の前に聖母マリアが出現するという奇跡が起こった。
当時はオリーブの木だけが点在するだけの荒地だったが今は厳粛な教会が建つ。
「ポー君の旅日記」 ☆ 聖母マリアの奇跡・ファティマ ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
世界遺産の〈キリスト修道院〉がある〔トマール〕から〔ファティマ〕までは40
分のバスの旅だった。 「けいの豆日記ノート」 埃っぽい工事中の〈奇跡の聖地〉であった。 この埃っぽさは、ホテルの乱立建設か衆人広場の拡張工事かと思われた。 首長クレーンが10機以上、空に向かって回転し踊って見えた。 バスの中に置き忘れたのと同じガイド本を乗り合わせた列車の中で、 偶然明日帰国するという横浜からきた工藤さんにもらったガイド本には、ファティマは〈聖なる奇跡の地!〉とあった。 日本から来た旅人は、信じろと強制され気味になると、特にポーの身体は何故か拒否反応をもよおす。 〈信心ロマン欠乏症〉なのだろうか。 困った時の神頼みが今まで叶えられたことが無い。 神が願いを容認してくれた記憶がない。 と言っても、神社があれば今でも手を合わせ頭を下げるし、お稲荷さんにも願いを送る。 しかし、教会でお願いしたことは、なかった。 でも、教会に行ったことはある。 教会で賛美歌を黄色い声で歌ったこともある。 小学生だった頃、クリスマスが近くなると教会で与えてくれるケーキ欲しさに仲間と40人が入れる かどうかのトタン屋根の教会に行った。 戦後間もない昭和25年の11月中旬、砂糖の甘さに飢えていた頃だった。 その集会は〈日曜学校〉と呼ばれていた。 日曜日に讃美歌を中心にした集りがあり、2時間ほど神父さんの話を聞いて歌を唄って、 十字架が描かれたカードに4回分のハンコが押されたのをイヴの24日に持っていくと、 イチゴが4分の1個のった小さなケーキをくれた。 教会に行ったと家族に知れると何故か叱られたご時世であった。 当然、ケーキを家に持ち帰れないので小学校の校庭にそびえる大きな樫の木の下で仲間と食べた。 その甘さと仲間5人の顔が今も鮮明によみがえる。 不思議だ。 ケーキ欲しさで覚えた讃美歌、恥ずかしながら今でも何曲か覚えている。 ♪主ワッキマセリ〜、主〜ウ〜ワッキ、マセリ〜♪(と、頭に響いてくる) だから教会を見ると、はるか遠い日のあの甘さ欲しさの少年期の思い出が甘辛く背筋を走る。 「けいの豆日記ノート」 ポルトガルの旅を毎年続けて4年、150箇所以上の教会を見て回ったが拒否反応を起こした教会はなかった。 トタン屋根の教会で感じていた甘さ欲しさの自分はいなかった。 それどころか、身体に打ち寄せてくる神秘さに素直にとけ込む自分がいた。 それぞれの地の、それぞれの教会内部の雰囲気に息をひそめ唾(つば)を飲み込んでいた。 余りの静けさで自分の耳奥がジ〜となる音を聞いたり、結婚式での反響する意味の判らない牧師の声 の荘厳さに打たれたり、壁のステンドグラスが陽射して内部壁面に虹模様が描かれ、それが太陽の移動 とともに映り動く幽玄さに心奪われ、薄暗い雨降る寒い朝の礼拝堂でロウソクの炎が妖しく揺れ動く中 での人々の祈りの声に喜々と感動し反応している今の自分がいた。 バスターミナルから工事中の埃の中に向かって300mほど歩いて予約しておいたアットホームな宿 「アレルイア」に入った。 安かったのと奥さんが写真好きだと知って相棒が名古屋から予約した宿だった。 ファティマの象徴〈バジリカ〉は宿の前の路地を挟んだ林の向こう側にあった。 通された1階(2F)の部屋のベランダからのぞくとバジリカの聖地が木々の間から見え、 上手(かみて)にクレーンの首が埃の中で回転していた。 宿の主人は白い口髭が似合う笑顔が絶えない愛想よさ。奥さんは美人だ。 でも人当たりは冷たい感じであったが人はよかった。 ホテルの廊下や階段に飾られた写真は奥さんの作品。 「愛しのポルトガル・山之内けい子写真集」をもらっていただいたら、奥の部屋に案内された。 額に入った写真が150点ほどあった。 作品は野菜や花のアップが多かった。 この地の作品は10点ほどしかない。 そんなものなのだ。 どっぷり浸かった生まれながらの地の風景より野菜の花の超アップの世界の方が新鮮なのだろう。 「けいの豆日記ノート」 《100年ほど前[ファティマ〕はオリーブが点在する荒野だったと言う。 その荒野が今や30万人もの群集を引き寄せる〈聖なる地〉になっていた》 拒否反応すら覚えていた。 〈宗教の観光地〉かと。 そのための客寄せ新興地開発工事かとバスを降りてからそれが胸につかえていた。 相棒のシャター音も皆無だった。 思いは同じ感じが伝わっていた。 泊まるほどの町ではなかったと。 そんな空気が二人の暗黙の中に漂(ただよ)っていた。 宿を出た通りの名前はドン・ジョゼー・アルヴェス・コレィア・ダ・シルヴァ通り。 一度口にしても覚えられない。 国道みたいな感じの道沿いに 聖地〈バジリカ〉広場は北東に向かって途方も無く広がっていた。 聖地に足を踏み込んだ。 『なに!この広さ!』仰天するほどの広い空間に相棒は息を吐き、 この地に来て初めてのシャッターを切った。 30万人もの人々を飲み込んでしまう石畳の空間が目の前にあった。 『正面のバジリカの塔まで600mはあるよね』と相棒が驚嘆する。 はるか先に白い塔が青い空に向かって延びていた。 その手前に真っ白い塔の上に金色に輝く像がある。キリスト像であった。 両手を広げて青空に浮かんで飛んでいるように見えた。 600mは長い。相棒が走っていった。 200m先を行く相棒が小豆ほどの大きさに見える。 照り注ぐ太陽は石畳に反射して目を射る。 人の姿は広さゆえちらほらとしか見えない。 毎月13日は、特に5月と12月の大祭にはこの広場が30万人もの巡礼者で埋め尽くされるという。 想像したけれど実感が沸いてこない光景だった。 群集という単位がピンとこないのだ。 その秤が、ポーにはなかった。 5万人の観客なら分かる。 甲子園球場の阪神対巨人戦の群集単位なら。 金色のキリスト像の下手にある礼拝堂に入った。 白いチャペルであった。 思ったほど広くはなかったが祈る人々が100人はいた。 木製の祈りの椅子が連なる。 両サイドの天窓から正午の太陽が燦燦(さんさん)と室内を照らして明るい。 ここが、聖母マリアが3人の子供たちの前に現れたという、かつて荒野であったその出会いの場所だと知った。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ファティマの奇跡 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 聖母マリアに会ったという3人の子供たちの一人、ルシアはシスター・ルシアとして生存していた。 今回の旅の翌年、2005年2月13日に97歳で亡くなっている。 当時10歳だったというから奇跡の日から87年しかたっていなことになる。 (同年4月に、ヨハネ・パウロ2世が逝去している) ほぼ90年間のまに、荒野の地が30万人もの人々を引き寄せる〈奇跡の聖なる地〉に変貌したこと に脅威さえ感じる。 それはいっかいの旅人には計り知れない神秘ですらあった。 怖いとさえ思う。 1世紀未満という時間に人間たちの行動は、愚かな時刻を簡単に刻むものだと知る。 その間に第二次世界大戦があり、ベトナムの悲劇、湾岸戦争、9.11同時テロ事件などなど、 〈奇跡の聖地〉が生まれて100年に満たないうちに、人間という生物は日々刻々と悲惨な歴史の重みを刻み込んできた。 そして今、30万人もの巡礼者は〈奇跡の聖地〉に何かを求めて神に会いに来る。 甘さ欲しさの少年期、教会に毎週日曜日、親に隠れ通った〈日曜学校〉のあのトタン屋根の教会が物 凄く懐かしく、暖かな新鮮な血潮が身体を締め付け駆け回っていく快感に、青い風を見たようだった。
〔ファティマ〕という地名を知ったのは、作家・沢木耕太郎の「深夜特急」であった。 今もなお、世界を旅する日本の若者のバイブルとして読み継がれている。 ポーもその一人であった。 単行本の2冊目から3冊目発売まで6年ほど待たされた「深夜特急」だ。 〈ポー君の旅日記〉の〔サグレス編〕に沢木さんのことを書かせてもらった。 ポルトガルの〔エルヴァス〕から〔リスボン〕行きのバスに乗ったとき、沢木さんが乗りあわせた青年に 「君は神を見たことがあるか」といわれ「ファティマ」という知らない地名を聞かされる。 「何をしに?」と聞くと「神に会いに」と青年が言った後「私は神に会ったことがある」 と断言された沢木さんは「・・・・」を12個、打っている。 それが印象的にポーの少ない脳味噌に、焼き付いていた。 「・」一つひとつが、1年以上の放浪の旅を続けた沢木さんの喜怒哀楽の流れを宇宙的に 示しているようにさえ感じてもいた。 そのファティマで相棒のシャッターを押す数も多くなってきた。 バジリカの大広場の両サイドの路地には巡礼者のための土産店がひしめいていた。 圧倒的に多い商品は勿論《聖母マリア像》であった。 店によってそのマリア様の〈お顔〉が違うし、値段の高い像のお顔のほうが〈美しい〉。 何となく納得できた。勿論、黄金色に輝くキリスト像も多かった。 聖母マリア様の前で頭をたれて祈る3人の子供たちの像も目を引いた。 どの店に入ってもこの3つの像は欠かせないのは当然。 でも、その中で、白い衣裳の上に黒い長袖を羽織ったシスター像が気になる。 もしかしたら、シスター・シルビアさんなのかなと勝手に想像した。 相棒は店の人に了解を取り、それぞれの像をカメラに収めていた。 「けいの豆日記ノート」 2時を過ぎていた。腹が鳴るほど減っていた。 小さなレストランに先に飛び込んだのは相棒だった。 『おなか鳴ってたぞ、ポー!』そう言うご当人のほうが、音が大きかったように思う。 でも、ポーは優しかった。 『シマッタ! 聞かれたか! 腹がぺこぺこッ! 美味いもん食いてー!』とすかさず吐いた。 腹の虫が多い人が注文した。 しかし、質素であった。イカの煮物の皿に揚げたポテトの山盛りとサラダが一皿ずつで7ユーロ、 それにセブンナップ1ビン0.75ユーロ、ビール1ビン0.75ユーロで計1105円。 これが2人分の昼食であった。でも、美味しかったし量も充分であった。 食べた量は腹の虫が多い人が、やや多い。 真実を素直に語ると・・・断然、多めだった・・・・あっ!ボコン!痛ッッ! 旅は何時も粗食であったが一人は太って日本に帰り、一人は痩せて祖国に帰った。 〈奇跡の聖地〉では、嘘をつけない・・・・・。 小さなレストランを出た。満腹であった。 メモ書きの地図を見る。宿の白い口髭が似合う主人が勧めてくれた真新しい観光遊歩道の地図だ。 商店街の路地から地図に沿って相棒が進む。 その遊歩道の入り口に立って、二人はぽかんと口を開けてたたずんだ。 荒野だった。確かに遊歩道が延びていた。野っ原に細い道が1本走っている。 木がないので木陰がない。太陽は遠慮を知らない。 暑い!100mぐらいおきに白いレリーフ(浮き彫り)が20ヶ所ほど点在していた。 この地〔ファティマ〕に現れたマリアと3人の牧童の物語が散策しながら学習できるようになっている。 『お遍路八十八ヶ所参りのファティマ版だね、ポー』と流れる汗をぬぐって 相棒が持参の〈緑茶〉を飲みながらポツリと言う。 相棒は口数が少ないが、状況把握は適切であった。 〈緑茶〉は朝、作る。スーパーで買ってきた水に日本から持参してきた、 回転寿司から頂いてきた緑茶パックを浸した〈日本の味・緑茶〉だ。 これが、美味い。一日二万歩取材のエネルギーになった。 その暑い日差しの中で石のベンチに座って相棒が日本茶を飲んでいるとき、老いたシスターが土ぼこ りのが舞うバジリカ方向から歩いてきた。 その時、ポーはあの青い風を再び見たように思った。 頭に白い絹の布をかぶり、身体を白い衣裳で包み込み黒い長袖を羽織った姿の シスターが杖を突いて飄々(ひょうひょう)と近寄ってきた。 ベンチからポーは跳ねた。何かに打たれた。 痺れる美しさがあった。相棒は〈緑茶〉をすすめた。 ベンチにそっと座り、老いたシスターは微笑み、黙って飲んでくれた。 紅のない唇から声が漏れた。『デリシオソ!』と聞こえた。 美味しそうに飲んでくれた。 そして、『オブリガーダ』と言った。 ありがとう、は判ったが、その前の言葉がわからなかった。 しばらく話?をした。日本から来た、ということは判ってもらえたようだった。 別れ際に相棒は千代紙で折った〈折り鶴〉を差し出すと、 嬉しそうに手のひらの中で優しく包み込むように見つめた。 その微笑む姿を目の前にして、このシスターはひょとしたらあの 〈シスター・ルシアさん〉ではないのかと、その時ポーは思った。 瞳がうっすら濡れているように感じられた。そんなはずがない。 その頃はシスター・シルビアさんは、大学の町で有名な〔コインブラ〕という 町で修道女として生活していたのだからと思いながら・・・・・・・・・・・・ 点点点を96個、シスター・シルビアさんのお歳(当時)だけ打ちたい衝動に駆られていた。 「けいの豆日記ノート」 翌日、4月30日(金)。クレーンの音で起こされた。 昨日の巡礼遊歩道の歩きの疲れでぐっすり眠った。 モーニングを腹いっぱいに収めた。 移動する次の地〔レイリア〕はガイド本にない町だったが、昨日調べておいたバス発車時刻まで2時間 あったので再度目の前のバジリカにご挨拶を決めた。 寒かった。相棒がモコモコだ。 Tシャツ3枚がさねという寒い朝であった。 黒い雲が西から東に向かって流れていた。天候の急変であった。 木々の間をぬって広大なあの広場に踏み込んだとき、相棒が見た。 小学生の集団登校の行列だった。 子供を見ると目の輝きが一変する。何時ものことだった。 子供たちが好きだった。追った。 土産店の路地を抜けて集団は左折すると校舎が見えた。 支流から本流に集まる川の流れのように子供 たちが合流する校門の前で、弾けてくれた。 明るい表情の子供たちの笑顔だった。 校門の厚い鉄扉が閉まる前に、相棒は走り寄ってきた先生(シスター)に イエローカードならぬホワイトカードを見せた。 フラメンコギターリストの友人である出口さんにお願いして書いてもらった《日本 から来た女性カメラマンですが撮影させて頂けませんか》の印篭的カードを見せた。 シスターは微笑み鉄扉の門を閉め、オブリガーダと頭を深深と下げた。 当たり前の展開であった。 が、嬉しくもあった。 子供を守る、ことに忠実であったことに、感謝する思いだった。 小雨が降って来た。折りたたみ傘を宿に置いてきていた。 小学校の建物から小走りに走り、大広場を横切って、聖母マリアの像が安置されている横に揺らめく 茶色のローソクが立ち並ぶ一角に駆け込んだ。 直径5cmもある太いローソクに黄色い火柱がゆらゆらと揺れていた。 その中の消えたローソク1本1本に、火を灯す女がいた。 相棒だった。茶色のローソクは20cmくらいから1mほどの長い物まであった。 勿論、長さによってローソクの値段は違う。当然だ。 相棒がシャッターを押していた。 消えたローソクの残りの再製施設場だった。(覗くな!とポーは言った) 宿の白い口髭の主人に礼を言って、バスターミナルに向かった。 バスは乗り口を開けていた。エンジンはすでに発車音をたてて待っていた。 埃っぽい国道を黒い排気ガスを残して、バスは〔レイリア〕に向かった。 *「地球の歩き方」参照*
終わりまで、旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。 次回をお楽しみに・・・・・・・2007年5月掲載 |
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