「ポー君の旅日記」 ☆ 国境の町アントニオ ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
ポルトガル最南端の国境の町は,川を渡ればスペインだった。
その日、2月の早朝は快晴だ。
モーニングタイム1時間前に起きだし、カタカタ鳴くコウノトリの姿を撮影した後の、ファーロの宿の食堂だった。
モーニングを腹一杯詰め込んだ写真家けいちゃんが言った。
「ポー、行くぜ!」それが、国境の町ヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオだった。
今日の予定は昨日行ったラーゴスからバスで行くしかないサグレス。
しかし、写真家の勘を優先する気まま旅。歩いて歩いての出会いを求めた撮影取材だ。
行き先は写真家の勘を優先させるとポーは決めていた。毎年訪れるポルトガルの旅。
写真家の勘がうまいこと順調に回転していたからだった。
ツキは大切にしたかった。
心やさしいポーは素直だった。
宿から石畳の道を歩いてファーロ駅まで10分。でも、30分もかかった。
乗車する時間を決めていない時の写真家は何時も気まま。
『撮りたい時に撮る。』という自由さが必要なのだ。
そんな時は何時もポーは写真家をはなっておくに限ると決めていた。
自分が生きてきた仕事の現場で、自分がイメージする映像をカメラマンに伝え、カメラマンが描き出す映像がモニター画面に表現されるのを見てイメージと合体したときの喜びは至福。
違った時の落差。その積み重ねの連続が作品となって放映される。
スチールカメラマンは瞬時の個性の切り撮りで一枚の作品を描き出す。
自分が演出者でありカメラマンなのだ。
だから、ポーは相棒の写真家としての個性を大切にしたかった。
写真に暖かさがあった。特に、出会った人物作品には心がとろけるほどの愛情が感じられた。
ポーはファーロ駅に走った。
国境の町への時刻表を見る。発車まで後12分。駅を飛び出し写真家を探す。
コウノトリが教会の煙突の上で巣づくりしている姿を追う相棒を発見。
「時間ないぞ〜!」と叫ぶと「ポー、後5分はありそう〜だね」と、のたまう。
で、悠然と発車時間に間に合い、国境の町に向かった。
1時間の車中だった。バスでも、列車でも、路面電車でも、動く乗りものに乗ると、すぐ眠ってしまう相棒。
こういうのって、乗り物に弱い!って言わない。
国境の町に着く10分前に何百羽というフラミンゴの大群を車中から見た。
「起きろ」と叫ぶ。
でも、その前に写真家はシャッターを切っていた。ぐっすり眠っていたはずなのに。
(ポーだって、眠かったのに・・・・。)国境の町で降りた。駅舎をを出たら何もなかった。
終着駅の町は閑散としていた。
「けいの豆日記ノート」
終点の駅で降りたのは5人だった。改札口でキップを渡せなかった。
駅員が改札口にいなかったから。終着駅って、それも国境の終着駅だよ、哀愁が漂っているかと思っていたのに。
ない!感情がない。哀愁がない。
駅舎の前は何もなかった。町の中心地は、何処って言う感じ。歩いたよ、15分も。
急に広場に出た。マルケス・ボンバ広場だった。人があふれていた。広場は野外市場だった。
骨董品からパン屋さん、手作り鍋敷き売りまで、その数50店ほど。
骨董品とは、名ばかりのガラクタ市といったほうがいいようなものばかり。
鍋敷きをその場で作って売るおばあさんがよかった。
童話に出てくる魔法使いみたいな、おばあさんに会えたよ。
やさしい、いい顔だった。このシワ1本1本に思い出が刻まれているんだろうな。
歩かないと出会えない顔だったよ。
買い物客を撮影していた写真家が突然「ポー、あの人たちってスペイン人じゃない。」という。
相棒の観察眼は鋭かった。観光客の少ないこの時期、その一団は普段着だったし、観光客風には見えなかった。
地元の人が一団となって野外市場を丹念に物色するのもおかしな光景だ。
物価の安いポルトガルに国境を渡って来たに違いないとポーも思う。
写真家の目がキラリ光る。来た!
「ポー!行くぜ!」だった。待ってました!相棒!だ。
「けいの豆日記ノート」
川の向こうがスペインなら、川を目指すのが鉄則だよね。
グアディアナ川がとうとうと流れていた。
広場から5分もかからなかった。
目の前にスペインの町アヤモンテが見えた。この河口の広い流れが、国境なのだ。
フェリー乗り場はすぐわかったよ。長い列が出来てたんで。11時だった。乗った。
心地よい風に吹かれて、10分。
えっ!って言う間に、もうスペイン上陸だったよ。
上陸しても、何のチェックもない。国境って、あってないみたい。拍子抜けだよ。
川を渡っただけなのに雰囲気が違った。
スペイン上陸だった。初めての入国だ。
でも、と思う。作家・沢木耕太郎の描いた『深夜特急』を感動して読んでから20年以上もたっている今、当然の生業(なりわい)だけれど、でもその時は感動した。
国境を渡るのに苦労した作者の世界は微塵もなかった。
10分で渡ったスペインは気のせいだけでなく、違った風が流れているように思った。
川を渡っただけなのに町には観光客であふれていた。
さほど大きくない公園で目についたのは子供たちの服装だった。子供が着ている服は高価だった。
ヨーロッパ各地から来た金持ちの、別荘持ちの子供たちで公園は占領されている風情だった。
公園を囲むレストランも、避暑地に来た人たちだと思う客であふれていた。
人間の大人ぐらい大きな犬を5匹も連れて散策する家族もいた。
アヤモンテは高級リゾート地だった。
「ポー、ポルトガルに帰ろう!」急な指令が来た。
写真家が撮りたい世界ではないのはわかる。でも、12時を過ぎていた。腹が減っていた。
せめて、ランチだけでも食べて帰ろうと提案。相棒も依存なかった。
裏通りの小さなレストランに入り、イカのリング揚げを食べた。
これが、うまかった!2皿も食べてしまった。
ワイントファンタで7,9ユーロ(930円)だった。
3時間ほどアヤモンテの町を撮影してフェリーに乗って国境の町に戻った。
再度、国境の町を散策。特にこれといった見所はなかったが、でもあきることはなかった。
1991年、この国境の町とアヤモンテをつなぐ全長4kmの橋も完成して、国境の町もポルトガルとスペインの架け橋に重みを増したことは事実。
ポルトガルはスペインとの国境が北面と東面に囲まれている。
国境意識は当然であり、国境が歴史を作ってきた。計り知れない重くて長い国境と言う歴史。
「ポー、時間がないよ〜!」と叫び、終着駅に走った。
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